「日本遺産認定記念シンポジウム」

 基調講演は、服部英雄「中世球磨郡と相良氏の歴史と文化・保守と進取」。相良家の海の武士団としての性質と商品生産地としての山地の有利さを主体に。相良家は、今の静岡県牧之原市相良の出自。沿岸の潟湖に隣接する立地。さらに、所領も、豊前国上毛郡成恒、日向平群平野、播磨国飾磨郡大隅と薩摩と海沿いの海運に便利そうなところに所領を確保している。それが、何故、内陸の球磨郡に入ったか。
 これには、商品としての林産物、特に武士の装備に重要であった鹿皮と皮革製品、造船や建築、さらに海外貿易の商品ともなり得た木材の存在が大きかった。北条氏にしても、交通の要衝と同時に、阿蘇小国に所領を得て、満願寺という寺が現存している。このような、「利権」として、中国との木材交易が重要だったのではないかと指摘する。中国側の史料にも、「日本との交易品で、財政に有益なのは硫黄と木材」と言及している。また、中世には、中国の寺院の造営に際して、日本から材木が寄進されている事例がある。特に、九州の木材は、有力な交易品だったのではないかという。このような交易には、鎌倉期の史料は皆無だが、菊池氏も関与していたのではないかと指摘する。傍証としては、菊池川河口で採集された陶磁器片の出土(松本コレクション)や蒙古襲来絵詞で無位無官の菊池武房が尻鞘に虎の尾をしつらえていることなどを挙げる。
 このような、林産物を背景に、戦国時代には八代という海へ出る土地を制圧、琉球や中国との交易に乗り出す。遣明船が一度に16艘も派遣されている事例。大内氏から鉱山技術者の派遣を受けて銀山の開発(宮原鉱山)を行なうといった活動を行なっている。単に山奥に安住した存在ではなく、積極的に海外に打って出る、そういう存在だったと。
 末尾は、人吉と八代を結ぶ軍道としての庵室道の話や人吉の最初の本拠地「寒田」はどこかといった話。


 所領というか、「狩倉」と呼ばれる狩猟場所を確保したり、山地の村落から税として木材・皮革・紙・茶などを徴集していたというのが興味深いな。中世の所領経営が、商品交易を前提として行なわれていた。後の、シンポジウムでは、相良家文書の茶の記述は、日本国内の茶の史料初出なのだとか。また、後々にも重要な特産品であり続け、近世には島津氏を介して、琉球に輸出され、「相良茶」というブランドとして珍重されたという。商品生産地としての山地というのが、よく現れている。


 その後はパネルディスカッション。引き続き服部英雄氏に、仏像の研究者の大倉隆二氏、建築士の西島眞理子氏、人吉市教育委員会の職員で日本遺産指定に尽力した三村講介氏の四人のパネラーに、コーディネーターは熊日の松下純一郎氏。
 貴重な仏像が多数存在し、まだ調査が進んでいない状況。あるいは、独自の建築様式の寺社建築群、日本遺産指定への活動など。
 しかし、文化財で「地域活性化」というと難しそうだよなあ。巡礼に関しては、相良三十三観音とか、やっているし。市房山は縁結びの神様だそうで、もう旅行会社と婚活会社あたりと組んで、球磨郡パックツアーで、最後は市房山のお祭りの日に、婚活パーティみたいなベタな話しか思いつかないな。
 そもそも、地域内に美術の専門研究者がいないということで、大倉氏は、何度か、そういう研究者の養成を訴えていた。球磨郡内に大学がない以上、教育委員会で雇うか、歴史教師・美術教師あたりで採用した人物を鍛えるくらいしか手がないよなあ。あるいは、兼業研究者? アカデミックで、かつ在野って、かなり茨の道だしなあ。
 あと、球磨郡では天部形武装神像が、まだまだ見いだされないまま、大量に存在するとか。歴史遺産の厚み。やはり、戦場にならなかったのが、中世からの寺社建築と神仏像の大量残存を可能にしたんだろうな。