井上亮『忘れられた島々:「南洋群島」の現代史』

 第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、日本が支配したマリアナ、マーシャル、カロリンの赤道にまたがる島嶼地域の植民地史。日本の南洋進出に関しては、長谷川亮一『地図から消えた島々』や平岡昭利『アホウドリを追った日本人』といった、現在も日本領の島々を扱った新書や選書が出ているが、本書はさらにその先の島々にフォーカスしている。列強の利害に翻弄され続ける島々か。


 第一次世界大戦で、日本がドイツ領の島嶼を占拠。その後、国連の委任統治領となるまで。スペインの残酷な支配、虐殺。そして、ドイツによる燐鉱石の採掘と、半ば放置された状況。ドイツは流刑地として利用し、「南のシベリア」と言われたとか。南洋諸島の日本支配は、アメリカの本土とフィリピンの間に楔を打ち込むことになり、警戒感を刺激。太平洋戦争への伏線となる。


 日本の支配も、島民のことを考えたものではなかったが、委任統治領として国連の監視があったため、あまり乱暴なことはできなかった。しかし、もともとの住民は無視して、日本から「国策移民」を大量に導入する方式で、南洋地域の経済的開発が行なわれた。
 この南洋への移民は、沖縄県民が多く、本土出身者、沖縄出身者、先住民の三重の差別構造が見られたことも指摘する。


 後半は、太平洋戦争の島嶼をめぐる激戦。太平洋の島嶼が、アメリカと日本の互いに防衛線を遠ざけあうせめぎあいの舞台になり、国家を破壊する「導火線」になった姿。アメリカが海兵隊島嶼争奪専門部隊に育て上げ、太平洋戦争での勝利の原動力になり、対して日本側が島嶼の要塞化を怠ったと指摘するが、島嶼を要塞化しても、実際のところあまり意味がない。航空戦力と水上戦力を欠いた島嶼は避けて通ればいいわけだからなあ。トラック島とか、兵力が多い拠点は、最終的に避けているわけだしな。
 戦場になった南洋の島々では、移住した民間人も巻き込んでの戦いが行なわれた。日本軍は、民間人も動員し、多くの犠牲者が出た。民間人が自殺していったのには、国のために美しく死ぬという「死の美学」が背景にあったのではないかと指摘する。戦場に放り出された人びとの凄惨な状況。まともな補給もない中、追いつめられていく。サイパンを失い、追いつめられた日本軍は、南洋の島嶼を時間稼ぎの「捨て石」とし、さらに無残な戦場を出現させる。地下陣地で要塞化された島で、凄惨な戦いを継続することになる。
 直接戦場にならなかった場所でも、島の住民は飢餓に苦しめられることになる。
 さらに囚人を動員して作った飛行場が、有効に利用されぬまま、アメリカに利用され、B29によって日本を焼き尽くす「砲台」として使われてしまう状況。


 最後は、戦後。日本に変わってアメリカが委任統治を行なうことになったが、アメリカは軍事基地として利用し、その分の捨扶持を与えるだけの「ズー・セオリー」を実行する。そして、日本のマグロ漁船も巻き込まれたビキニ環礁の核実験など、核実験を繰り返し、島の人々に大きな被害を与える。健康被害にとどまらず、故郷を失い、自己の文化を奪われる。そして、その被害を訴える声はあまりにも小さい。アメリカも、なかなかの外道ぶりだよな。
 ビキニで被害を受けた第五福竜丸の通信士であった久保山愛吉の戦中戦後の南洋との関わり。
 南洋に移民した人々は、収容所に押し込まれた。そこでも栄養失調で死者が多数でる。日本軍が軍用に秘匿していた食糧が、占領後、供給されたってあたり、ひどいな。その後、日本に「送り返される」ことになった。戦場となり、人口が減少した沖縄県では、大量の元移民のインパクトは大きかった。30万の人口に、17万人って、そりゃ、大混乱だろう。国内の入植地や再移民の試みなどが紹介される。
 パラオなどの「親日」の正体。日系ハーフの人々の肉親探しや互助の手段として、日本人の慰霊団などが歓迎されたと。あるいは、日米の、現地の人々に対する戦後補償の不誠実さ。


 いろいろと問題を積み残したまま、放擲されている感じだな。そして、生き証人は戦後の時間経過で急速に減少している。内容山盛りで、読むのに時間がかかった。実際のところ、読んでいて愉快な話でもないしな。そして、体調不良もあって、まとめるのにさらに時間がかかった。


 以下、メモ:

 パラオでは階層順位が内地日本人、パラオ人、沖縄移民だったという。パラオ人が戦後も親日傾向にあるのは、「同化政策の影響で自分たちの方が沖縄県移民より上で日本移民に近いと考えることで、実際は差別されているにも関わらず被差別意識は薄れた」ことが要因とする指摘もある(前掲「日本統治時代からパラオ諸島に残る親日感情をめぐって」)。p.71

 うーん(絶句)。

 長い間引っかかっていたが、サイパンを含む南洋の島々の玉砕を報じる当時の新聞記事を調べていて何となく合点がいった気がした。戦後、「大本営発表」は虚偽の代名詞となった。「撤退」を「転進」といいかえるなど、負けを勝ちと偽ってきた軍の監視のもとにある新聞が、玉砕の事実を包み隠さず報道しているのだ。
 そこにあるのは敗北による意気阻喪を上回る「お国のために美しく死ぬ」ことの賛美である。実際の戦場に美しい死などないのだが、国民は観念的に美化された死に酔った状態ではなかったか。戦争の勝ち負けを通り越して「美しき死」が目的化していた。
 そう考えなければ、藤田の絵が戦時に世に出た理由がわからない。南洋群島での玉砕・集団自決には、徹底した軍国教育、捕虜を許さない軍の教え、敵は残忍という宣伝、自立した判断を否定する付和雷同の空気、そして二章で述べた沖縄県人の疎外されたゆえのナショナリズムなど、様々な要因が考えられる。そして、この「死の美化」も加えなければならないと思う。p.105

 シャーロッドは海兵隊の軍曹から、断崖下の岩のくぼみに首のない子供の死体がたくさんあること、親たちがわが子の首を切り落として海中に投身自殺を図ったという話を聞く。そして日本人の「奇妙な儀式」を目撃する。
「断崖の上から見つめている海兵隊にむかっておじぎをした、岩の上にいた百名ばかりの日本人の一団だった。彼らはそのあとで、各自の衣服をぬぎ、裸になって海中につかった。そして、全身を清めてから、新しい衣服を着て、平らな岩の上に大きな日章旗をひろげた。ついで指揮役の男が、手投げ弾を一個ずつくばった。そして一人ひとりその手投げ弾のピンを引きぬいて腹におしあて、これらの日本人たちは爆死をとげたのである」
 海兵隊員たちは日本の将校が日本刀で部下たちの首を次々と切り落とし、それが海中に転がり落ちる光景も目にした。バンザイ・クリフ下の波間には、兵士たちの死体とともに、幼子とその親たちの死体が数百も漂っていた。
 シャーロッドは「このような日本人の自決は、すべて何を意味するものだったろうか?」と自問する。捕虜になれば「鬼畜のアメリカ人に拷問される」と軍民ともにかたく信じていて、「それよりはひと思いに殺してもらいたいと望んだのであろう」という、しかし、それだけではないと彼は考える。
「多くの日本人のあいだには、あらゆることにかかわりなく、死のうとする強烈な推進力があるように思われた」
 シャーロッドは日本人の「死を美化する精神構造」を感じ取っていた。この悪夢の光景を見て「サイパン島戦こそ、あらゆる戦争のなかで、もっとも激烈で残忍なものであった」と吐露する。p.131-2

 だから、靖国神社は今でも危険なんだよな。戦死した人々を「慰霊」するのではなく、「顕彰」する。「英霊」や「散華」なんていう美化した言葉づかい。それは、人を死に導く思想的な仕掛けなんだよな。

 二四日、大本営は早くもサイパンの放棄を決定した。大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』は書く。
「帝国ハ『サイパン』島ヲ放棄スルコトヽナレリ。来月上旬中ニハ『サイパン』守備隊ハ玉砕スベシ、最早希望アル戦争指導ハ遂行シ得ス、残ルハ一億玉砕ニ依ル敵ノ戦意放棄ヲ俟ツアルノミ」
 戦争指導の中枢にいる軍人がサイパン陥落時点で今後の戦争は望みなしだという。そして国民が死に続けて相手がうんざりして戦争を止めるのに期待するしかないとまでいう。このような無責任な軍人たちが戦争を計画していたのだ。『機密戦争日誌』に二万余の民間人の安否を気遣う記述はいっさいない。p.123-4

 こっから、無残な殺戮戦争が続くわけだ…
 こうやって、国民を死に追いやった連中が、戦後は自分たちは正しいとか言い続けるわけだからな。あきれ返るしかない。

 日本軍は戦闘が始まる前にペリリュー島にいた約九〇〇人の島民をパラオ本島に疎開させている。これにより、サイパンのような住民を巻き込む悲劇だけは免れた。これを「住民を巻き添えにしないようにした」と道義的に評価する見解があるたしかにそういう面があったことは否定しない。
 しかし、サイパンなどの例を見ると、日本軍が実施した引き揚げ、疎開の一番の動機は「戦闘に用をなさない消費階級」の排除である。また、島民は米軍に内通するスパイという疑念もあった。元陸軍上等兵の次のような証言もある。
「魚雷壕など上空からの偵察だけでは絶対わからないところにあるのに激しくやられる。そこで島民の中にスパイがいるのではないかといわれていました。それに艦砲射撃などの攻撃がある前には、かならずノロシが上がるというので現地人が疑われたんです。そこで軍は現地人をペリリュー島からコロールやパラオ本島に引き揚げさせたんですよ」(平塚柾『証言記録 太平洋玉砕戦――ペリリュー島の死闘』)p.143-4

 美談の裏側。しかし、アメリカがスパイ網を作り上げる余裕もなかったように思うのだが。普通に、上空から工事状況が見えてたんじゃなかろうか…