- 作者: 滝沢弘康
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2013/09/14
- メディア: 新書
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美濃や北近江の調略を任されていたあたり、宝賀寿男・桃山堂『豊臣秀吉の系図学』が指摘する美濃北部のネットワークというのは、ありえない話ではないように思えるな。秀吉自身の出自がどうであれ。父親とその親族の姿が、秀吉の人生にまったく見えないとい本書の指摘は非常に興味深い。
出世の出発時点で、確たる基盤を持たなかった秀吉は、妻の親族である浅野長政、杉原定利、家次、木下家定ら。「桃園の誓い」に擬せられる関係である蜂須賀正勝、前野長康。信長から付けられた寄騎から構成されていた。
その後、斉藤家の旧臣や近江長浜時代に北近江の人材を吸収。また、加藤清正、福島正則、加藤嘉明ら、身内の育成といった先行投資も行なっている。中国地方攻略の過程で、黒田官兵衛を傘下に入れているのは、播磨を中心に、調略をかけていく上で、ものすごい力になったのだろうな。中国地方征服戦争の過程で、敵の城を長期間包囲し、降伏させる秀吉式の陣城戦法を確立する。この戦法を遂行する上で、兵站の確保や陣城の構築などの技術スタッフの重要性が増し、それは、後々の側近衆と前線の武将たちとの対立抗争を招く伏線となる。
本能寺の変で信長が急死すると、秀吉は、明智光秀を破った立役者として、後継者競争の中心となる。丹羽長秀、前田利家をはじめとする信長旧臣を家臣団に取り込み、徳川・毛利・上杉など各地の戦国大名を同盟者として帰順させる。しかし、このあたりから、秀吉とその家臣団の運命は暗転していくことになる。ワンマン政権における人事の不透明性、気まぐれで残酷な処罰による不満、石田三成による秀吉とのコミュニケーションルートの独占とそれにより派生した近江閥と美濃・尾張閥の対立、幼い実子秀頼を後継者にしようとして有力親族である秀次とその関係者の粛清。結果として、秀吉死後、徳川家康の台頭を許すことになった。
三成が、私心のない真面目な人物であったとしても、結局、「御内人」として無理を重ねて、豊臣家を滅亡に導いたことは確かだよなあ。真面目で、秀吉の意思に忠実だったからこそ、害悪だったというか。
秀次を粛清した時点で、豊臣家の命運は尽きていた感じが強いな。さらに、藩屏となるべき、一門や準一門、譜代である浅野長政、蜂須賀家政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明らを外様大名に対向できるだけの勢力に育てず、さらに三成との派閥抗争で離反を招いたあたり、もうどうしようもない感じが。かといって、家政をとりしきる石田三成あたりを、あまりえらくすることもできないし。
なんというか、天下人の明暗としか言いようがないな。