古賀守『ワインの世界史』

ワインの世界史 (中公新書 (415))

ワインの世界史 (中公新書 (415))

 うーん、なんというか昔の本って感じだな。歴史観がいかにも古いというか。ヨーロッパ中世を「暗黒時代」と称する人の本は、基本的に読む価値がない。あとは、40年たって、発掘成果とか、発掘された遺物を分析する手法が、本書が書かれた時期と比べ物にならないほど進歩しているのが予測されることとか。
 基本的に、古典古代と中世中期以降の、文献が充実している時代に力点が置かれすぎていること。現在のワイン文化と違う形のものに、非常に攻撃的な否定を繰り返すところも難点か。われわれの時代から、いかに奇妙に見えようと、プレーンに見る努力が必要なんじゃないかな。時代が変われば、今のワイン文化が奇妙に見られる可能性は高いわけだし。
 『イスラム飲酒紀行』を見ると、イスラム圏で葡萄酒が完全に消え去ったわけでもないようだし、公的世界ではない世界の飲酒をもっと深掘りしてもよかったんじゃなかろうか。まあ、史料というか、文献がきついか。
 オリエント諸文明下げと、それに対するギリシア・ローマの評価をやたらと褒め称える態度も、ちょっとアレ。


 野生の葡萄を利用した原始ワイン、濾過を行なわない不透明な旧ワイン、透明になった古典ワイン、紀元前後あたりからの新ワイン、そして、近代の科学技術が導入された現代ワインの時代と時代区分される。
 デュオニソスやバッカスのような酒の神。その二面性を持つ性格から、飲酒を統御しようとする考え。各時代の宴会文化。ヨーロッパにおける、ブドウ栽培の北方への拡大。北海・バルト海沿岸まで、一時的とはいえ、葡萄栽培を北上させる執念というか、無茶するなあ感が。よく考えると、この無茶感って、北海道まで稲作を広げた日本人の米大好きと通じるものがあるな。結局、中世後期のペストなどで、ある程度の適地を除いて、葡萄栽培前線は南下するわけだが。


 個人的には、ワインの「商品性」といったところに興味があるな。当然のことながら、葡萄を栽培するだけでは、食べていけない。しかも、ワインって、けっこう長距離を流通する。古代でも、地中海を縦横無尽に流通している。あるいは、イベリアやボルドー周辺から、イングランドへのワイン輸出は中世から行なわれている。あるいは、クレタなどエーゲ海のワインが、ヨーロッパへ運ばれる。長距離を移動する。
 作るほうも、素朴な一般の「農民」ではなく、売却を前提にした企業家であることを、考える必要があると思うが。


 ラストの機械化に関する考え方がおもしろいな。スチールタンクを使った大規模生産で、ミスや外部からの影響が排除された酒造りが、間違いないものだとする。で、エンジニアに「愛情」があれば、ワインの「本性」は失われないとする。このあたり、技術者的な自負心だな。