
戦国金山伝説を掘る―甲斐黒川金山衆の足跡 (平凡社選書 (167))
- 作者: 今村啓爾
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1997/02/01
- メディア: 単行本
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多摩川の最上流、鶏冠山東側の谷に存在した黒川金山。甲斐武田氏の財源にもなった金山であり、国史跡にも指定されている。前半は、山奥の金山跡を、発掘調査した記録。後半は、各地の鉱山跡に残る鉱石粉砕用の石臼の比較から見た黒川金山の歴史的位置や古文書とのクロスチェックによる黒川金山の歴史。特に金鉱脈枯渇後の金山衆の動向などに紙幅が割かれている。
発掘された陶磁器から、16世紀前半に、鉱山集落が形成。その後、16世紀中盤の時代の陶磁器の発掘は少ない。17世紀前半の遺物が再び増える。集落の盛衰。各所で、砂金上の金を溶かして粒金を得る作業が行われていたことから、各金山衆が、それぞれ独自性の高い活動を行い、中央管理が行われていなかったこと。坑道を使った水抜き技術の存在などが紹介される。ごく一部の発掘でも、わかることは多いのだな。
第四章の、鉱石をすりつぶす石臼の各鉱山での比較、そこから黒川金山の歴史的位置を探る章がおもしろい。供給口が軸を兼ねる石臼が中心だが、そこでも、片べりの克服のために軸を長くする。リンズを付けて軸を中央に固定し、片べりを防ぐというような技術的発展が見られること。黒川では、古いスタイルの回転臼や手でする磨り臼、そして鉱石を粗砕きするにも石を使っていたと、古拙な技術であったことが紹介される。遺物の特徴から、17世紀には、金山としての操業が行われていなかったこと。また、黒川の鉱脈が、金の純度が高く、砕いただけで、あとは砂金を採るように分別すればよかったという特色も影響しているのではないかと指摘する。
その後は、文書史料から明らかになる黒川金山の姿。そもそも、最盛期だった16世紀前半には、黒川金山関係の文字史料がほとんど存在しないこと。これは、武田氏による直接管理が行われていて、武田氏滅亡の時に、文書が失われたのではないかとする。その後、鉱脈が枯渇すると同時に、各金山衆に請け負わせ、運上金を取り立てるスタイルに変わっていったのではないかとする。
その後、1570年代以降は、金山衆に対して税を免除する証文が残るようになる。これは、金山衆が武田氏の戦争に従軍し、技術を生かして城攻めに活躍したことから、武士身分を得たこと。金山の操業を続けさせるために、盛んに減税を行ったことが影響しているという。
また、数少ない文書から、現在の甲州市塩山に本拠を持ち、農業・商業・鉱業など多角的に経営を行っていたこと。金山衆が、数人を集めた「組」に組織されていた状況などが紹介される。
武田氏滅亡と金山の枯渇後、金山衆は様々な針路を歩む。
徳川家の家臣となり、各地の金銀山経営に携わるもの。測量やトンネル掘りの技術を転用し、各地の土木工事を請け負うもの。他の金山に移るもの。北の一之瀬に集落を開くものなどに分かれた。
この調査が行われたのは、1986年からで現地で測量を苦労しつつ行っている。これが、現在なら、レーザー測量で、黒川千軒のテラス状の削平地の検出が出来るのではないだろうか。レーザー測量による、段彩図があると、より分かりやすいのではないかと思った。