川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ:治承・寿永内乱史研究』

源平合戦の虚像を剥ぐ (講談社選書メチエ)

源平合戦の虚像を剥ぐ (講談社選書メチエ)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

 鎌倉幕府開設に至る内乱の、「戦争」そのものを分析の中心に据えて、見直した本。非常に説得力を感じる本だが、治承・寿永内乱の研究史のなかで、どういう位置づけになるのだろうか。出版から20年たっているが、このあたりの時代は不案内なので、さっぱり分からない。
 平家物語などの後の歴史記述と違い、反乱軍の一集団であった頼朝の勢力が、最終的に政権を握る展開は、「予期せぬ結末」であったこと。「源氏対平氏」の二大勢力の対立に還元できない、各地域での蜂起、源氏の諸家系の存在があった。


 「武士」という存在が、王朝国家の枠内で成長したものであること。蝦夷や群盗に対抗するべく、国家や国衙によって組織された弓射騎兵で、武士身分の認定も武官選任や国衙が保管する家系図を通じて行われたこと。また、弓や鎧といった軍事技術も、京都を中心として形成されたものであったことが指摘される。また、騎射や馬術に熟達し、小型の馬にいつ全力を出させるかなどの駆け引きなど、高度な技能が要求される「武士」は、限られた有力な家しか出せなかった。そして、そのような武士は、国衙を通じて平氏側に動員されていた。
 戦乱の拡大にともなって、騎射の技能を持たない、下の階層の者たちが動員されたこと。むしろ、鎌倉武士は騎射が苦手だったというのが、いとおかし。苦手だったからこそ、頼朝は、騎射の芸を振興しようとしたか。


 「御家人」制というものも、戦乱のドサクサの中から形成されたものであるという指摘が興味深い。そもそも、保元・平治の乱によって、源氏の「嫡流」というのは存在しなくなっていたこと。関東を含め、各地の武士団は、それぞれの地域的な利害によって、平氏側に付くか、頼朝に付くかを決めていた。三浦・上総・千葉氏なども、それぞれ、平氏側に組織された競争相手との敵対関係によって、頼朝勢に参加を決めている。他の地域の武士も、勝ち馬に乗る形で、「御家人」となっている。
 地頭制も、相手方の本拠地を軍事占領し、敵対勢力の無力化をはかるのが目的であった。そして、反乱軍だからこそ、直接、敵対勢力の所領を、占領の担当者に与えることができた。平氏の場合、国家制度と一体化しているため、いったん収公し、改めて国家から恩賞として与えられる。反乱軍だからこそ、新たな国家制度を形成することができたというのが興味深い。
 そして、内乱が終わると、戦時体制の中で既成事実として作られた諸制度は、変質を迫られる。そのような状況で、改めて、自己を中心とする秩序を創出しようとする「政治」が、奥州合戦であったと指摘する。武士において故実が日常的に重視されるものであったこと。奥州攻めは、前九年の役の頼義故実を再現し、それによって新たな「神話」を創出するためのものであったと指摘する。全国から御家人を動員。日付なども、厳密にあわせ、そのスケジュールを優先するため、勅許なく軍事行動を開始した。