丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』

 タイトルの通り、戦国大名武田氏の家臣団を分析した本。
 戦国大名は、自身で家臣団を養成する一方で、社会的には領域でのトラブルの調停や安全保障を要求される存在だった。特に、安全保障に失敗すると、従属していた国衆が一気に寝返り、滅亡に直結する。これらの自治権を保持した国衆と、直接支配下にある譜代によって、戦国大名の家臣団は構成される。また、主君と人格的な結びつきで組織されるため、代替わりごとに、有力者の入れ替えが行われる。
 信虎・信玄・勝頼の「戦国大名」三代の家臣団の動向が描かれるが、現役期間が長かった信玄の時代に偏っているように思える。信玄から勝頼の代替わりで、勝頼側近と信玄の宿老の間で、かなり大きな溝があった状況を析出しているのがおもしろい。そもそも、信玄は、なぜ勝頼を明確な後継者として扱わなかったのだろうか。義信のクーデタ未遂に懲りて、明確な後継者をつくるのを避けたということなのだろうか。
 いろいろと問題があることで有名な、『甲陽軍鑑』をかなり史料として利用できるけど、「職制」の復元については利用に危険性があるのではないだろうか。後代に整理された概念が、時代を遡ってしまう危険を感じる。まあ、そもそも、『甲陽軍鑑』がなければ、家臣団編成の情報がないというのも、厳しいところだけど。そもそも、明確な職掌がなかった可能性もあるのではないだろうか。だから、「郡司」には、いちいちどういう方針でやれと、注意しなければならなかったのではなかったろうか。


 具体的に、家臣団のそれぞれを追及しているのが良い。あえて言えば、奉書などの文書の出現状況を統計的に処理するあたりがフロンティアなのかな。
 武田氏は、信昌から勝頼の5代の間に、親族間での対立を繰り返し、兄弟や叔父、従兄弟などの近しい親族で構成された「一門」を起用できなかったこと。勝頼の代、特に長篠の敗戦で宿老が多数戦死した後に、成人した一門衆を次々と取り立てることになる。信玄の代から軍事行政を担った宿老と勝頼側近の対立を見ると、実は長篠での敗戦は、家臣団を整理し、武田家を延命させたものであったようにも思えるな。
 信縄代以前に分出した庶流は「親類衆」と位置づけられた。彼らは甲斐の国衆でもあり、統一に抵抗した存在でもあった。信玄代になると、軍役は後方に配置されるなど、負担が軽かったが、裁判などの内政では譜代として参加していた状況が紹介される。


 家老に関しては、筆頭家老が意識的に避けられたこと。大名の地位を脅かす有力者の出現を警戒したとともに、家臣団全体でも突出した実力者は好ましくなかったというのが興味深い。大名が意図的に取り立てて、作り上げるもの。最終的には、限定した職掌を委ねられた家老が複数存在する集団合議制になって言った。
 次のランクは、郡レベルの領域の軍事・行政権限を委任された「郡司」層。国衆の所領を除く地域の支配を任された。もっとも、勝手に御料地を宛がったりと、トラブルもあって、定書と呼ばれる詳細に指令を書き込んだ任命状を出すようになった。また、軍事指揮権だけを与えられた「城将」という存在もあったようだ。
 一方、当主の下で事務を担当する吏僚層も存在した。代表的なものとしては、裁判・検断権を行使した「職」と呼ばれるものがあったようだ。他にも、いろいろと「甲陽軍鑑」から官職が紹介されているけど、これ、どこまで実態があったんだろうな。
 あるいは、抜擢養成された三枝氏など。


 国衆としては、甲斐国内の穴山・小山田両氏。信濃の真田氏・木曾氏などが大きく採り上げられている。国衆の統治の安定のために、武田氏は支援を行っていたらしいこと。あるいは、国衆が従属していく過程。あるいは、甲斐本国に国衆が、国内統治に参加した結果、外部からは譜代家臣と区別がつかなくなっていった状況。
 信濃の先方衆としては、真田・木曾が別格で扱われている感じだな。真田は協力者として、木曾は半分は同盟者的な扱いといった感じなのかね。実際、木曾氏が離れたのが、武田氏の滅亡のきっかけになったわけだし。もっとも、頼りにならないからと離反しても、領地を維持できるか、あるいは扱いが以前の状況を維持できるかというと、そうとも限らず、離反はリスクもけっこうあったと。


 最後は、今川衰退後に組織された武田水軍や部隊指揮を担った足軽大将など。新参の他国出身者が、部隊指揮官クラスとして登用されたとか、武田水軍を担った小浜・向井氏が徳川幕府の水軍を担った話とか。

 戦国大名と従来の権力を区別するひとつのポイントとして、村落に宛てて直接文書を出すようになったことが挙げられる。戦国大名とは、村落と直に向き合い出した権力なのである。
 ところが、その際に身分差が問題となる。戦国大名と村落では、身分差が大きすぎるのだ。安易に判物を与えては、大名としての権威に関わる。
 そこで生み出されたひとつの方法が、朱印状なのである。p.197

 村落と直接向き合うようになった権力か。