齋藤慎一『中世を道から読む』

中世を道から読む (講談社現代新書)

中世を道から読む (講談社現代新書)

 中世の道のあり方を、さまざまな側面から明らかにする本。道路は自由に交通できるという現在の常識とは全く異なる世界。人為・自然の障害で、阻害される交通。案内人の協力と保護がないと、安全が保証されない。その中で、独自で山道や間道の知識を持つ山伏の優位さとか。
 一方で、史料の制約から、武家の「使者」の交通に偏っているとは言えそう。商人や地元の一般人は、どう往来していたのか。あるいは、本書の射程外だけど、河川交通と街道の関係は。
 中世から近世への変化が、見えにくいというのも興味深い。豊臣政権の時代になっても、交通の調整は必要だった。あるいは、近世の街道が、既に戦国大名によって整備されていた。近世東海道は、北条氏が整備したものを引き継いだものであるという。
 今回は、読み終えるの優先で、地図を見ていないけど、やはり地理の知識が不可欠だな。


 第1章は、全体の導入。戦国時代の文書に頻出する「路次不自由」というワードから、人為的、自然的要因によって、連絡が難しかったことを指摘する。大名どうしの書状のやり取りでも、連絡が通じなかった言い訳として説得力があったと。


 第2章は、自然の二大障害、川と峠の話。
 利根川は、上流部では浅瀬を渡渉、中流では渡し舟、下流では船橋がメインの渡河手段だった。桁橋は、この時代の技術では、頻繁に流され、経済的に引き合わなかったという。ダムが存在しない前近代には、雨が降れば急激に増水するし、雪解けの季節には増水で通行の障害になる。軍隊を渡すときには、浅瀬を渡るか、船を使った船橋を臨時に架けることが多かった。
 続いては、峠。峠は、異界であり霊的存在の危険があり、同時に、各勢力の境界地帯で、それだけに治安の真空となりえた。そのため、安全を祈願する地蔵などが置かれ、それへの賽銭が利権となりえた。峠を縄張りとする運輸業者は、賽銭や輸送料を払う相手には保護を、逆に払わない相手には山賊にはやがわりしたと。


 第3章は、道路を管理する人々。街道に特別な権利をもつ人々がいて、それらの人々が通行人のチェックや逆に護送を行っていたこと。使者を送る場合には、そのような人々に対する調整を行う必要があったし、それが整わなければ、出発することができなかった。
 上杉家の利根越えのルート開拓の経緯や碓井峠の城など。


 第4章は、中世関東の交通体系について。
 鎌倉時代から室町時代、15世紀の半ばにいたるまでは、鎌倉街道、特に上道がメインの交通路だった。南西部から北西部に行くには、遠回りだったが、結局、このルートが利根川を渡りやすかったということらしい。新田義貞鎌倉公方の軍勢が往来し、文化人が通った。
 この交通体系は、鎌倉や武蔵府中の政治的重要性に支えられていた。しかし、鎌倉公方の権力の衰退、新たな政治体制構築の中で、交通ルートの再編が行われる。扇谷上杉氏の時代から、政治的拠点が、鎌倉街道から離れた場所に立地するようになる。水上輸送の重要性が高まると。同時に、交通の結節点として、早い段階から江戸は都市であったと。16世紀の時点で、江戸時代の名所が名所になっていたのが興味深い。


 以下、メモ:

 地蔵菩薩をめぐって、その施主と現場の山の民が関連していたであろう。山の民がお賽銭すなわち関銭を徴集する作業をしたとすれば、彼らは山賊たちとなんらかの関係をもっていたのではなかろうか。みずからが設置した地蔵菩薩にたいしてお賽銭を供えた旅人を襲うのは道理に合わない。むしろ供えた旅人の峠越えを庇護する存在となる。生命の安全から荷物運びに到るまで、峠の運送業者の役割もまっとうする。
 逆に言うならば、お賽銭=関銭を納めない旅人にたいしては地蔵菩薩の庇護はなく、略奪の対象となる。関銭を支払わせる象徴が地蔵菩薩となる。なんと地獄の沙汰も金次第。このことわざは中世にまでさかのぼってしまうのだろうか。p.101

 峠の守護者の二面性。

 また聖護院門跡道興准后も堯恵と同じころ、関東各地を遍歴する途次に墨田川にやってきた。道興の下向は政治的な目的があったが、『廻国雑記』には隅田川付近のさまざまな場所を訪れたことが記載されている。浅草寺に参拝し、待乳山や浅茅原で歌を詠み、隅田川では都鳥に思いをはせる。“名所を訪ねる”として忍岡・小石川・鳥越にも足をのばしている。
 道興や堯恵の行動は、江戸近郊の名所が十五世紀後半には京都の人物にまで認知されていることを示している。江戸時代流行する行楽のスタイルは十五世紀後半にまでさかのぼらせることができる。p.204

 江戸の行楽が、中世以来の伝統を引き継いでいるということ。それだけ、密度の高い都市的伝統が存在すると。