倉地克直『江戸の災害史:徳川日本の経験に学ぶ』

 密度の高い本だった。かつての中公新書の名著のようなレベルで。江戸時代の社会が、災害に対し、どのように対応したのかを追っている。災害の社会史というか、制度史といった趣。取り上げられたトピックは多岐にわたる。
 家・村・「公儀」といった階層で、災害の被害から命を守ろうとする。災害からの再建のコストを誰が負担するかで、時代ごとに変遷するのが明らかにされる。災害から照射される「公儀」や「地域の治者」の動向は、徳川時代の政治のあり方全般に敷衍できそうだな。
 時代ごとの災害の変遷も興味深い。17世紀から18世紀初頭には、地震災害が目立つ。18世紀になると、日本全国で新田開発が進み、河川の氾濫原の開発が進んだためか、水害と飢饉が災害のメインとして目立つようになる。さらに、18世紀末から19世紀になると、再び地震が目立ちだす。このあたり、厳密には、メディアや記録の偏りに影響されるのだろうけど。ローカルな規模の水害がどのように起き、その復興がどのように処理されたのか見たいなのが、改めて興味が出てくる。
 熊本藩の事例が多く収録されているのが興味深い。新熊本市史から引かれている事例が多いようだが。
 あと、江戸時代の災害の死者の多さ。21世紀の変わり目前後とは、全然桁が違う。昭和のころの災害とか、発展途上国の被災状況を見ると、それだけ災害対策にお金をかけたってことだよなあ。


 第1章は、17世紀中盤、1680年代あたりまで。幕藩体制の草創期。地震に飢饉。江戸や京都のような大都市の形成により、大火災の発生。そして、大規模な災害を報じるメディアの登場。あとは、「仁政」概念の形成と「撫民」。


 第2章は、17世紀末から18世紀の始め。綱吉から吉宗の時代。近世的な「公共」の姿が固まる時代。幕府が「公儀」として、災害対策の前面に出てくる時代。宝永の富士山噴火では、全国に「諸国高役金」を賦課し、富士山の火山灰による相模川の河床上昇に対策を行っている。また、領主をまたぐ広域河川の治水に関しては、御手伝普請や国役普請などを、享保の飢饉では拝借金の貸与や米の廻送などの対策を行った。
 この時代になると、村や地域で、災害を記録・記憶していこうとする動きが出てくる。
 あと、綱吉や吉宗の時代には、放火が多かったというのが驚き。「無宿」の人間が逮捕処刑されているけど、実際のところ、政治的陰謀もあったんじゃなかろうか。


 第3章は18世紀後半。飢饉の時代。また、財政難の幕府や藩が後景に退き、民間の富裕層が、災害対策の前面に出てくる。
 宝暦の飢饉で、弘前藩は食糧確保のため、米の輸出を中止。餓死者を出さなかった。一方で、現金確保のために廻米を強行した藩では大量に餓死者を出すと、対応の差が明確に出た。一方で、天明の飢饉では、余力のなくなった諸藩には、なすすべがなかった
 この時期になると、民間富裕層が重要な役割を担うようになってくる。炊き出しへの資金の拠出や村山地方郡中議定のような自主的な村落連合の出現。囲米と義倉。また、打ちこわしによって圧力をかけ、領主や富裕者の施行を引き出す「慣行」の広まり。 
 しかし、この時代の「飢饉」って、実際にはどの程度生産量が減少したのだろうか。打ちこわしで圧力をかければ、溜め込まれていた食料が出てくるわけでもあるんだよな。分配の問題の側面もありそう。


 最後は、寛政期(1790年代)以降。徳川幕府の体制が揺らぎ、崩壊していく時代。ヨーロッパ諸国の進出に対して、軍備強化を強いられ、災害救護のリソースを失う幕府や諸藩。地域の行政・開発は、在地の富裕者層を、武士身分に取り込むかたちで丸投げ。被災者の救援も、在地主導となっていくが、度重なる災害に、民間社会も疲弊していく。
 熊本藩の「在御家人」が、けっこう長く採り上げられているのが興味深い。また、19世紀初頭以降、大規模な地震が頻発するようになる。数十年くらいのスパンでの、活動期・静穏期ってのがあるのだな。
 最終的に、天保の改革や幕末の混乱の中で、徳川幕府は解体していく。


 以下、メモ:

 寛永一六年から一八年(一六三九〜四一)にかけて、西日本で牛疫病が流行する。西日本では牛は耕作や運送に欠かせないものであったから、農業生産に打撃となった。
 たとえば現在の熊本県にあたる肥後国地方の様子は、次のようであった。
 この地に五四万石の領知を持つ熊本藩では、寛永一二年七月・八月と続く大風で凶作となり、寛永一三年には長雨と虫害で引き続き凶作となった。翌一四年も再び虫害に見まわれ、事態が深刻化するなかで隣接する島原・天草で一揆が起きる。牛疫病がこれに追い打ちをかけた。同国蘆北郡津奈木手永では寛永一〇年に二二四疋であった牛が寛永一八年には九疋に激減したという〔新熊本市史編纂委員会 2001〕。「手永」は二〇か村ほどからなる熊本藩の行政単位で「惣庄屋」が管轄した。藩主の細川忠利は九州全体では二万疋から三万疋の牛が病死したと幕府に伝えている〔藤田 1982・83〕。p.37-8

 メモ。へえ。江戸時代前半でも、そういう飢饉があったのか。しかし、牛のイメージはあまりないな…
 藤田覚寛永飢饉と幕政」『歴史』59号、60号、1982・1983年

 上から社会を統合しようとする動きは、下々に緊張を強いるものだ。厳格な統制政治のもとでは不満がさまざまなかたちで蓄積する。
 「天譴」論には先にも触れた。古くは中国から伝わったもので、日本列島の人びとにも広く受け容れられていた。「天譴」論では、災害を悪政の結果であり大乱の兆しだと考える。その証拠は、災害にともなってさまざまな「怪異」現象が起きることでもわかる。だから、ことさらに「怪異」を語ることは、悪政を批判することであった。
 戸田茂睡の『御当代記』は将軍綱吉一代の出来事を記したものだが、全編が災害と「怪異」の記述にみちている〔塚本 1998〕。最初は、綱吉襲職直後の延宝八年(一六八〇)閏八月六日の大風洪水だ。この年には、「ほうき星出、大風吹き、黄蝶数十万飛びあるき」と「怪異」が続く。「黄蝶は乱世の兆し」と噂された。その後、天和二年(一六八二)までの三年間は、長雨や大雨風・洪水が列島各地を襲い、諸国で飢饉が続いた。これも先に触れたように、長崎や京都・大坂で黄檗僧たちによる施粥が行われ、窮民はようやく飢えをしのいだ。
  (中略)
『御当代記』は、それ以降天和三年二月までのニか月あまりに、毎日昼夜五、六度、多いときには八、九度も火事があったと記す。しかも、そのすべてが放火だったという。それを取り締まるために幕府は、中山勘解由直守を火付改に任じた。町々には、火の見櫓を設けて、付け火を監視するように命じている。p.67-8

 綱吉といい、吉宗といい、外から将軍が入ってくるときには、相当な反発があったようだな。まとまった政治的陰謀があっても不思議ではないが…

 どんなに災害で破壊されても、生まれ故郷に帰ろうとするのは、人の「帰巣本能」だろうか。避難が長期化すれば、意思も挫けるだろう。それを乗り超えて帰還を実現させたのは、島民の熱意とリーダーの不屈の指導力であったに違いない。他方、避難先にもさまざまな事情があったろう。帰らないという選択の余地はほとんどなかったかもしれない。南の島の小さな帰還劇にも、災害をめぐって考えるべき問題が多くあるだろう。p.145

 青ヶ島の1785年噴火と、避難した島民の40年越しの帰還。避難先の八丈島にも、避難者を受け容れ続ける余地がなかったんだろうな。トルコ辺りから押し出されているシリア難民と同様に。

 麻疹と並んで幼児の死亡率を高めていたのは疱瘡(天然痘)であった。イギリスのジェンナーが牛痘を使用した予防接種法を発見したのは一七九六年のことだが、それが長崎に伝えられたのは嘉永二年(一八四九)であった。その後ただちに江戸の以東玄朴、京都の日野鼎哉、大坂の緒方洪庵が種痘を実施した。安政五年(一八五八)大坂に除痘館、江戸に種痘所が幕府の援助で開設され、地方でも在村の開明的な医師たちの努力によって急速に普及した〔田崎 1985〕。p.214

 ある意味、流行病に確実に有効な医療手段って、これが最初だったんじゃなかろうか。