ミュージアムセミナー「肥後から江戸へ! 熊本藩の参勤交代」

 展示されている品物の解説がメイン。
 最初は、「親子でみる美術展」の意義とか、参勤交代の基礎知識とか。家光の参勤交代の法制化は、過熱する忠誠競争を抑制するためというは、ある程度常識化しつつ話ではあるが。


 一番目のトピックは、大名行列の図。こういう行列や、細かい持ち物で差別化というのは、「家格」の主張に命をかけまくった江戸時代の大名らしいな。とにかく、いろいろな場面で自分の家格をデモンストレートする。二人横並びの金紋先箱や対鑓は、将軍の許可が必要で、少数の大藩にのみ認められたもの。家格の高さを主張するもの。「御入国御行列之図」では、数えると900人だそうで、これは多くも少なくもない数なのだそうな。初入国の時は、気合を入れて動員をかける。細川光尚が2720人、斉護が3000人というのが多い例。逆に、窮乏期の重賢の時には、546人まで削減されていたという。
 参勤交代の旅は、なかなか過酷で、随行する藩士は体力増強のための訓練が行われた。あるいは、土佐藩などは重いものを持っていかないようにする。逆に前田家などは古式の完全装備での行列と、お国柄が現れるらしい。
 登城時にも対鑓を持つこと望んで、許可を求めたが、断られた。しかし、明治に描かれた「登城図」には、しっかりと対鑓が描かれているという話には、家格に対する執念が表れているようでおもしろい。


 二番目のトピックは、旅のルート。豊後街道を通り、鶴崎から海路をとる。豊前街道を経由、関門海峡あたりから海路。同豊前街道から山陽道の三通りのルートがあった。行きは豊前街道からの海路、帰りは鶴崎経由が多かったそうな。あと、江戸時代前半は、国替え時のトラブルから黒田藩と仲が悪くて、鶴崎一択だったとか。
 大坂以後は陸路を通るが、名古屋までは、鈴鹿越えと関ヶ原越えの2ルートがあったと。
 40日ほどで熊本と江戸を往復。
 あとは波奈之丸の話とか。文化庁の人が、地震後、天守閣に突入して、無事を確認したらしい。しかし、あれ、もともとけっこう傷んでいるという噂を聞くが…


 最後は江戸での生活。
 殿様は登城するのが仕事と。しかし、出かける度に行列組まなくてはならないとなると、鬱陶しかろうな。
 狩野勝波「江戸勤番之図」の解説がメイン。類例がない史料なのだとか。一部の役職者以外は、仕事は数日に一度程度で、かなり暇を持て余すらしい。他の藩の武士とのトラブルを避けるため、外出は制限されて、長屋で暇を持て余す。で、いろいろと遊んだり、駄弁ったりという姿が、描かれる。特別手当が出るので、懐はそれほどきつくもないらしいが。特別手当で借金を返済するために、頻繁に参勤交代に参加する武士もいたとか。