森山高至『非常識な建築業界:「どや建築」という病』

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

非常識な建築業界 「どや建築」という病 (光文社新書)

 新国立競技場のザハ建築のような、周囲の環境から遊離した建物が提案されて、それがコンペで採用されてしまうか。建築業界の問題点を指摘する本。いや、ほんとに自意識過剰のウザい建築物って、多いよなあ。基本的に、「建築家」とされる人々が、外観設計以外に関する知識経験を持たないこと。また、評価軸が内輪の建築家サークル内での評価しか存在しないことが、アレな建築の叢生を招いていることを指摘する。10年程度で流行が変わるって、現代アート並みの軽薄さだけど、その後30年程度、住んだり、利用する人々がいるってことは視野に入っていないのかな。
 読みやすくて、外野からは納得感のある本。「建築家」の方々からの反論を期待したいところ。
 つーか、この人、ザハ・ハディド大好きだろ、実際は。


 第1章が公共建築物のコンペの問題、第2章が自意識過剰などや建築が横行するようになった戦後建築史の流れ、第3章が建築教育の問題点、第4章がゼネコンの現場力の衰退、第5章がそのなかでよい活動を行っている人々の紹介。
 公共建築物のコンペの問題が根深いな。コンペの候補を選ぶ選考委員の「専門家」が、実際にはライフサイクルコストや使い勝手などの面まで、見通して、選べる知識を持っていないことが多い。結果として自分の関心や、自分の専門での評価が高まるようなところに偏らせてしまうと。それを防ぐためには、入念な準備が必要と。つーか、要件を煮詰めて、叩き台の作品まで提出するなら、その検討段階のやることを規定して、それをやる建築家を入札で選んだほうが良いんじゃね。
 22ページで紹介された駅舎の立替計画って、どこなんだろう。維持費がかさんで、図書館としては使えないって、最悪じゃないの。


 次は、「どや建築」が横行するようになった歴史的・訓練段階の問題点。
 つーか、脱構築を建築に持ってくる時点でアレだよなあ。基準を外した結果、住み心地が良くなるならともかく、外観をいじってもしょうがなくね。中は普通の建築で、外観だけ歪ませた建物のばかばかしさと言ったら。まあ、ザハ・ハディドの「本気」の脱構築も、そりゃ、使い物にならないだろうとしか…
 戦後の建築の源流としての丹下健三。都市計画から始まって、単純な建築物の設計だけではなく、地域の研究や建築技術の研究など、広い範囲に渡った。しかし、その後、そのような仕事は「組織設計事務所」が行うようになった。一方、建築方面では、磯崎新の建築意図を解説する流れから、むしろ、写真や文献で評価される方向に傾斜していく。また、住宅建築からステップアップしていくキャリアの問題点など。
 また、建築教育における「オリジナル」信仰の問題点。そこの浅い「オリジナル」。そもそも、本気で「オリジナル」を目指すなら、過去の建築や様式の深い理解が必要だと思うが、そうではなく、初学者に定石を外せと指導する傾向。さらに、ロールモデルとしての、若手の「非常勤講師」の問題点。
 安易なオリジナルに走った結果、逆に流行に従った画一的な建築物が横行する状況。さらに、外観の奇抜さに走った結果、建物としての機能を満足しないものを建ててしまう現況。最近の、真四角の住宅って、本当に見ただけでうんざりするんだよな。あれって、住宅としての性能を犠牲にして、あんな格好にしているのか。ダメじゃん。


 第4章が、ゼネコンの能力低下。そもそも、ゼネコン自体が、金融や過去の実績による公共事業の落札など商社化しつつあると。
 もともとは、現場の広汎な権限を握っていた現場監督と各下請け業者の、属人的な、ウェットな人間関係によって支えられていた。しかし、市場縮小による後継者育成の欠如や設計・管理部門で派遣従業員が中心になったことによる、現場力の低下。
 まあ、属人的な技術の蓄積と継承から、組織全体での技術の保持にいたる、過渡期という状況なのかな。標準化して、派遣従業員による一時的なグループでの、業務を可能にするとか、いろいろと試練がありそう。
 しかし、派遣従業員を使って、目先の費用を削減した結果、書類に振り回されて、肝心の建物を建てる部分がおざなりになるとか、アレだな。


 最後は、良い活動を行っている例。槇文彦の代官山ヒルサイドテラスの事例や既存の建築物を改修する青木茂のリファイニング建築、長浜の黒壁スクウェアの事例などを紹介。
 しかし、ストックの建築物を評価できないってのは、日本の建築・不動産業界の最大の問題だよなあ。
 黒壁スクウェアの取り組みはおもしろいな。既存の建物をリフォームする際に、ゆるい縛りをかけることで、統一感のある町並みを演出する。地元の人から、そういう運動が出てきたことが良いな。熊本なんかは、逆の方向に突っ走っているけど。地震もあって、町屋が取り壊されて、マンションが立ち並ぶことになるのだろうな。


 以下、メモ:

 具体的な技術的調査と修繕に関する設計はほぼ終わり、計画はいつでも実行に移せる準備を整えつつありました。サブトラックの設置が必要なことも分かっていました。売店や食事を提供するレストラン施設がない、バリアフリーにも対応していないなど施設利用者や管理者から出される要望も十分承知していました。だからこそ、それらを取り入れた修繕計画を整えようとしていたのです。もちろんそうした検討には、競技場の施設運営に長期的に関わっている第三者の専門アドバイザーも入っていました。
 しかし、こうした検討の蓄積は、ある瞬間すべて反故にされました。そして、利用者や管理者の意見には耳を貸さず国民との対話もないままに、数ヶ月やそこらの検討で、2020年のオリンピック誘致に向けた「新国立競技場の建設」という過大な仕事がJSCのもとに舞い降りてきたのです。きっかけは、元来オリンピックともスポーツとも関係のない「神宮外苑再開発計画」という出自のよく分からない都市開発の構想案ともいわれています。ある神社地のコンサルタントが描いた青写真に、政治家やゼネコン関係者、開発利権者が相乗りしてオリンピックを出汁に強引な計画を進めたのが、すべての破綻の始まりでした。p.60-1

 国立競技場建て替えの経緯。日本スポーツ振興センターは、改修計画を、時間をかけて検討していた。それが、突然、欲ボケ都市計画に巻き込まれたと。本当にアホだな。つーか、誰が推進したのか、白日の下にさらされるべき案件だよなあ。
 つーか、あそこ、何も建てなくていいんじゃね。ありものをメイン会場に使おうぜ。

 新参者にもかかわらず、そのエリアに対し圧倒的に支配的な印象を与えてしまう建物は、どの地域においても違和感を抱かれるのが常です。「拒絶」が当然の印象でしょう。そのエリアの地域性や歴史性を否定している、対抗している、あきらかにズレている――そんなネガティブなインパクトを与える、しかしデザイン的には、あるいは建築家のマインドとしてはきわめてポジティブな建築。それが「どや建築」と呼び得る建物の共通点かと思います。p.71

 しかし、このビルが建てられた1970年代当時は、おそらく一般大衆も黒川氏が見ていたのと同じ「未来」をこの建物から感じ取っていたはずです。先に、ザハ氏の新国立競技場案が拒絶された理由を、「新しく奇抜なデザインだから拒絶されたのではなく、新しさの裏にあるロジックが一般には理解不能だったから」といいましたが、その伝でいけば中銀カプセルタワービルは、その背景にあるロジックを多くの人たちが受け入れた建物でした。そしてそのロジックは、当時の世相、時代精神を極限まで突き詰めた建築デザインとして、現代に生きる私たちの心をも打つ、どこか懐かしいものとして肯定的に響いてきます。それが、保存運動の発端にもなっているのでしょう。形態こそレトロ化しましたが、現在はその「ひと昔前の未来思想」をひと目見ようと、海外からの見学者もひっきりなしに訪れていると聞きます。p.87-8

 定義が難しそうな概念ではあるなあ。
 中銀カプセルタワービルは、時代精神を体現するから「どや建築」ではないと。いや、確かにアレはありで、ザハ案はなしという感覚は、確かにあるんだよなあ。まあ、ザハ案は、明らかに敷地に収まっていなかったのが問題なのだが。

 雨漏りしやすい個所は、建築関係者ならよく分かっています。建物の上部、ガラスの継ぎ目、異なる材料がぶつかる部分など。ところが、これらの雨漏りしやすい個所は、雨漏りしやすく設計したほうが意匠的に格好良くなるという矛盾を抱えています。p.142

 かっこよさのために、性能や価格を犠牲にするのはアレだよなあ。つーか、図表6の右側の「かっこいい住宅」がめちゃくちゃ嫌いなタイプだ。

 しかも驚くべきことに、当時のオーナー一族が代議士を務めていた関係から、条例を制定して、代官山周辺の旧山手通り沿い全体に高さの規制をかけてしまいました。自分の関わる土地で目先の不動産価値を高めるために、より規制を緩めるといった話は聞いたことがありますが、次世代のために地域の生活環境を向上させて価値を高める仕掛けのために、規制を厳しくするという話は、あまり聞いたことがありません。この英断によって、旧山手通り沿いの景観が規定され、高台を通り抜ける解放的な道路と街並みの関係が決まりました。p.220

 代官山のヒルサイドテラスの話。建築家もだけど、依頼したオーナーがすごいな。つーか、この条例を定めた話、他の土地所有者の自由を制限したって話でもあるんだよな。まあ、その代わり、土地の価値は高まったとも言えるのだろうか。

 では、問題がどこにあるかといえば、「改修される建物の資産評価ができないこと」がその第一です。ある建物が改修して使うだけの経済的価値があるかどうかを一定の基準で判断できないのです。そのため、地域で長年愛されてきた建物であっても、必要な投資がなされないもまま、ほとんど放置されているものが山のようにあります。p.226

 日本の不動産市場って、市場の体をなしていないのではなかろうか…