山本博文『武士の評判記:『よしの冊子』にみる江戸役人の通信簿』

 山本博文本が連続。松平定信の閻魔帳こと、「よしの冊子」から、幕府中枢の役人の記事を抜粋した本。問題意識としては、幕閣がどのように登用されたのかといったところにあるらしい。
 しかしまあ、幕府の役職の費用は持ち出しだけに、賄賂とまでは行かずとも、進物・贈り物の収入がないと厳しかったのだろうな。で、その費用は譜代大名の領民の税金が元になるわけで。いろいろと無理な制度だった感。
 あと、奥向き、将軍と指摘に接触できることの重要性。田沼意次が失脚したのは、信任を受けていた将軍の死去が主要因といえそうだし、松平定信も奥向き老中の役職を失った途端失脚。追い落とした方の老中は、定信の後任だったわけだし。あと、定信政権というのは、幼い将軍を、近い親族が押し立てるという側面があったのだろうな。御三卿が関わっているあたりに。
 あと、田沼意次の失脚後の扱いがひどい。田沼意次自身は、実直な人物だからこそ将軍の信任を受けたのであろうし、特に要求したわけではなかったらしい。まあ、急に成り上がっただけに、部下の統制が行き届かなかったんだろうな。で、人材登用なんかが乱れた。


 老中、若年寄寺社奉行町奉行勘定奉行の評判が個人ごとに整理されるが、なかなか手厳しい感じだな。そういう世論の中で評判の良い人が、やはり取り立てられる。とはいえ、外の評判と中の評判が食い違う人がいるのが興味深い。年寄りで役立たずと見られていた鳥居忠意が仕事が速くて実務者に評判がよくて、世論の評判が良い若手の俊英松平信明がしょうもないことを細々つついて仕事が遅いという評判になる。
 老中なら、譜代の大名と、ある程度の格式の枠があるけれど、そのなかでできる人は取り立てられると。堀田正敦や京極高久、脇坂安董あたりは重用されたと。


 町方を相手にする町奉行も、なかなか難しい業務だったようだ。なんかあったときに失言すると、揉め事になって更迭される。あるいは、裁判での手際が悪い柳生久通がさっさと別の役職に移動したり。
 勘定奉行になると、かなり能力主義といった感じになるのだな。500石くらいの旗本が、長く勤めたりする。で、彼らも、キャリア組みだから、勘定として昇進してきた連中にチクチクやられると。


 奉者番から寺社奉行、そしていくつかの役職を歴任して老中になるのが、譜代大名キャリアパス。数千石から数百石クラスの知行取りが町奉行勘定奉行に就任。それぞれ、どの程度の石高の人がつくのか、ある程度の枠があったのだな。


 あと、松平定信も、贔屓の部下がいるというのが興味深いな。柳生久通は、細かいところにこだわりすぎて仕事が進まないと、町奉行を更迭されて、勘定奉行での評判よくないのに、そのまま任命され続ける。しかしまあ、家に帰りたくないとか、今のサラリーマンみたいな人だなw
 あと、ノンキャリアの最終到達点たる勘定吟味約も、なかなか癖のある人がなるようで。佐久間茂之が上を騙したとか、直接の上役をいびるとか、評判が悪い。それでも、定信はものすごく信任してたようだ。
 このあたりの人材の好みはどうなんだろうな。

 町方抔にて、越中様は何ぼでも田安の御子で、細かナ事も御存知なされぬはづだが、弾正様(本田忠籌)がわるい。何の事はない、公方様が仕送り用人を抱えなさった様なものだ。公儀の御身代ばかり能く成りても、一統に世上が詰りては公儀の御為にもならぬ。弾正様は全く仕送り用人だ、と評判仕りよしのさた。
――町方などにて、越中様は何と言っても田安の御子で、細かな事も御存知なさらないはずで、これは弾正様が悪い。何の事はない。公方様が仕送り用人を抱えなさったようなものだ。幕府の財政ばかりがよくなっても、全体に社会が詰ったのでは、幕府の御為にもならない。弾正様は全く仕送り用人だ、と評判しているとのことです。


「仕送り用人」とは、領地にいて年貢を徴収し、また倹約に努めて主君にお金を送る家臣のことである。本多のやっていることは、国や国民全体を見る財政ではなく、幕府だけを見る財政だった。一万五千石の知行で、倹約を重ねてようやく勝手向きをよくした本多が、その発想で直轄領四百万石の幕府財政を切り盛りすると、財政規模が縮小し、民間にお金が行き渡らないようになる。寛政期の不況は、こうした幕府の財政政策にも原因があっただろう。p.68-9

 「倹約」で景気が悪くなって、迷惑してたと。もう、貨幣経済が浸透した時代に、時代錯誤な反動策をとったとしか言いようがないしな。