ミュージアムセミナー「細川家の殿さま:名君・細川重賢」

 細川コレクション展示室の「細川家の殿さまの書-墨字が織りなす世界-」に伴うセミナー。もともとは、通潤橋をテーマにした展示を行うはずだったのだが、地震で損壊、通行不可。で、展示を見て現地に行っちゃう人が出てくると困るので、テーマを変更したそう。さぞ、バタバタしただろうな。
 今回の講演は、細川藩中興の祖と言われる、細川重賢の事跡の紹介。部屋住みの身分から、兄である藩主が、殿中で切り付けられ死亡。急遽、藩主に就任。どん底に落ちていた細川家の財政を再建、その他様々な賞賛される改革を行った人物。しかし、一番印象的だったのは、ドテラ姿の肖像かな。ほぼ日刊イトイ新聞 - 細川家の平熱。で紹介されているもの。よくもまあ、こういう肖像が描かれたものだと。


 検索すると、改革の中身はあちこち出てくるが、倹約による支出の削減、蝋などの専売による増収、120年ぶりの検地による新田からの年貢収入確保などが行われた。また、「知行世減の法」と呼ばれる1649年の知行を基準とし、それ以降の知行は功績次第で操作する法令。これによって、支出の削減や柔軟な人事が可能になったと。
 これらの財政改革で、支出が削減されたことが、「宝暦以来御勝手向御繰合之御模様大略御調帳」から分かると。この史料、活字化されているのかな。


 また、様々な部分で改革を行っている。
 行政機構を部局ごとに分けて、権限を明確化。家老への権限集中を抑える。自邸で行っていた業務を奉行所で行わせ、公私の別をつける。
 刑法草書の編纂による刑事処罰の明確化。死刑と追放刑しかなかったのを、懲役や鞭打ちなどの刑を導入。犯罪者の社会復帰を意識した刑罰制度を導入している。
 藩校時習館を設置し、秋山玉山を教授に登用。倹約のなかでも、時習館に関しては帳面を作らず、費用を惜しまなかったというあたりに、重賢の入れ込み方が分かるな。学習進度に応じた、過程の整備。下級の武士や民間で、成績のよい者を入学可能とし、人材の登用を可能にした。
 一方、私生活では、学問に熱中し、毎週会読を行ったり、漢詩を作ったり、博物学に熱中し行く先々で生物などをスケッチさせている。仲間もいて、阿部正福が持参した植物を写生した絵が残されているとか。こういうのも、実利と趣味が重なったものなのだろうな。徳川吉宗も興味あったらしいし。


 これらの事跡は、藩外の人々の興味を引き、「肥後遊草」「肥後順見記」「肥後物語」「肥後公振行録」などの書物が書かれた。これらの外部からの評価や後世の事跡録「銀台遺事」などによって、「名君像」が形成。19世紀の藩政改革の動きの中で、再評価を受けたと。


 財政改革もだけど、戦国時代以来なあなあでやって来た細川家のシステムを、作りなおしたというのが大きいのだろうな。倹約とか世減の法とか、支配を担う藩士には不評だっただろうし。外の評価が大きかったと。
 あと、重賢の「改革」のイメージソースがどこから出ていたのかも気になるな。専売とか、法典の整備とか、藩士全体を対象とした藩校とか、どこに発想の根があったのか。
 あと、刑法草書以前に、死刑と追放刑しかなかったのは、それ以前には、そもそも犯罪を公式の裁判に持ち込まない「法文化」であったのだろうな。磯田道史『歴史の読み解き方』に言及されているような。このあたり、裁判記録の経年変化を分析した研究はないのかな。