永青文庫セミナー「熊本藩刑法の特徴と犯罪の実態:天領との比較を通じて」

 毎年恒例の、熊大学園祭にともなう、図書館の貴重資料展とそれにともなうセミナー。今年のテーマは、法制史。存じ上げなかったが、講師の安高啓明氏は、昨年、熊大の准教授になった方の模様。
 熊本藩は、宝暦の改革で「刑法草書」を編纂し、最初に懲役刑を導入した点で高く評価されている。熊本の刑法が、江戸時代の刑法の体系の中で、どう位置づけられるかという話。レジュメに比べて、ディテールが多くて、メモしきれていないが…


 最初は、江戸時代、幕藩体制の法体系の話。武家諸法度に「万事如江戸之法度、於国々所々可遵行之事」とあるように、武家諸法度、そして幕府の法を最上位とし、藩法、町村法という重層構造を成し、諸種の法が並存する形だった。このため、諸藩は幕府の法執行資料を収集。永青文庫にも、「公事方御定書」の写本が複数伝存する。
 江戸時代の法律では、判例や慣習の法的効力が認められていた。このため、「公事方御定書」が編纂された。判例の集約と同時に、明律を参照し、犯罪即死刑から寛刑化の方向に進んだ。しかし、犯罪の増加が懸念され、秘密にすることで犯罪の抑止をはかる威嚇主義・秘密主義が採られた。
 しかし、本来、三奉行と京都所司代大坂城代のみが閲覧可能であったはずの「公事方御定書」は、実務の必要などから、書写され、かなり広く流布していた。各藩が、法制の参照資料として求めたのみならず、村役人などのクラスまで流布。出店で閲覧させるといったこともおこなわれていたとか。
 あとは、法が関係者の所属によってかわる「属人主義」が採られ、複数の法にまたがるような人物の事件だと、いちいち江戸に伺いがおこなわれたとか。


 中盤は、取調べの実務や刑の執行など。
 江戸時代には、現在の刑務所のようなものではなく、牢屋は犯人の身柄を拘束し、供述長所を作成することが主要な任務だった。その任務の一部として、刑の執行や拷問が行われたと。熊本では、奉行丸の敷地内に存在し、お白洲と隣接しているが、これは異例であるそうだ。通常は、少し離れた場所に設置される。囚人の暴動が起きることがあり、中枢とは離された。
 また、時代劇のイメージと異なり、お白洲とは、裁判の場所ではなく、現在で言う罪状認否のみを行う場所だったと。刑の宣告は牢で行われた。また、白洲に敷かれている砂利は、かなり荒い玉砂利で、実際にそこに座らされるとかなり痛いという。自白を得る、最後の手段でもあったと。
 あとは、牢番の職務。差し入れの可否や火災の際には救出し、別の牢に移送する。手枷足枷の鍵を外す、あるいは出来ない場合破壊する。
 あくまで、自白を得るための手段としての拷問で、殺さないように気が使われた。重罪かつ証拠が揃っているのに、自白が得られない場合に限られた。拷問にも、牢問と呼ばれる牢番の権限で行う拷問と、奉行や家老の許可を得る必要がある拷問に別れていた。「拷問図」が展示されていたが、縄かけや鋏、石抱などは、牢問の範疇であった。それに対し、水責めは「拷問」になり、役人が見守る中で行われている。そのような違いがあったと。
 あとは、様々な刑罰。それぞれの都市などで執行される入墨刑の模様の図解が残されていたり。追放は他所に責任を押し付けられる楽な方法だが、熊本藩ではそれを克服して、「徒刑」を導入したとか。


 最後は、熊本藩の法制史料、「刑法草書」と「口書」の評価。
 成文法として、各地の刑法に大きな影響を及ぼした「刑法草書」。追放刑や体刑を制限して、徒刑を導入したことは評価できるが、「近代的」と言えるかどうかといった口ぶり。もっとも、ヨーロッパの同時代の刑法も、どこまで「進歩的」だったのだろうか。
 法制史料としての「口書」も興味深い。本来、供述調書を指す「口書」だが、口書に典拠となる法や判例を綴じ込んでいて、熊本藩の法の運用実態を明らかに出来ると。ここから、実務用の資料がスピンオフしていて、台帳のようなものであったらしいと。