熊本大学第13回 21世紀文学部フォーラム「文学部の社会活動」に出撃

 熊大文学部のアウトリーチ活動。あまり宣伝されていないせいか、人出は微妙。いろいろとタイミングが悪かったようだが。
 演題は、「マンガによる地域文化の活性化」と「被災史料レスキュー活動と地域史研究」の二題。


 前者は、熊本県内でマンガミュージアムを作ろうと運動しているNPO法人クママンの活動の紹介がメイン。合志市で、旧西合志町の民俗資料館を改装して、マンガミュージアムを作ろうと言う動きが進んでいるそうな。建物を作る金がないから無理だろうと思っていたが、既存施設を転用できるのか。
 確かに、合志市でマンガのアーカイブスが持続可能かどうかは気になるな。利用可能な形で維持ができるのだろうか。まあ、熊本だと、菊陽の少女雑誌コレクションの先例があるから、ある程度のコレクションなら、何とかなるのかな。質問したくてできなかったのだが、市長が変わって、方針が変わったらどうなるのかなというのが、気になる。反動的な市長でも、潰せないほどの支持を得ておく必要があるということかね。
 「民俗資料」としてのマンガというのも、おもしろい視点。
 あと、コメンテーターの崇城大学の先生のまとめも、おもしろかった。浮世絵とおなじように、海外に散逸してしまう可能性か。ポップカルチャーと言う点では、どちらも似たような性格だから、そこはありうるな。また、ある程度歴史があるだけに、作家・コレクターともに、高齢の人がいて、その人が亡くなるとともに、捨てられてしまう危険性があると。散逸の危険性が高まっていると。
 あとは、マンガ関係の文化施設の段階の話も興味深い。湯前まんが美術館のような郷土の偉人を検証する偉人館が第一世代、京都精華大、明治大、北九州のような統合型の施設が第二世代、で熊本の試みが分散型・コミュニティベースの第三世代の先駆例になりうるとか。
 紙資料をコストをかけて保存することの是非というのは、どうしても問題になるよなあ。紙で遺していくことは、保存性・利用性の問題、紙面だけが情報ではないという点で必要性は高い。けど、金を出す人を説得できるかというと、そこが心もとない。


 後者は、熊本地震にともなって、歴史資料のレスキューを行う「熊本被災資料レスキューネットワーク」の活動報告。
 116件の相談をうけ、28件でレスキュー対応と。あるいは、通い徳利のコレクションの御船町への寄贈を橋渡しした話とか。公的に評価されていない文化財が消滅する危機と同時に、再評価のチャンスでもあると。レスキューの過程で、中世文書が発見されるようなこともあったと。レスキューした資料はクリーニングして、目録化するという、手間のかかる仕事があるため、長期間活動を継続する心構えが必要と。


 熊本県における地震の記憶が「社会的に抹消されている」という指摘が印象的。江戸時代の島原大変肥後迷惑では、各地に慰霊碑や波先石が作られ、社会的記憶が残されたが、明治22年熊本地震ではそういう動きが希薄。忘れ去られてしまっていると。確かに、あちこち石碑を見て回っているけど、明治の熊本地震の石碑は見たことないな。お寺なんかを熱心に探せば、出てくるかもしれないけど。
 『熊本明治震災日記』の刊行のような、記録を残す試みは行われたが、教訓が蓄積されなかったと。安政の南海地震は熊本でもかなり大きな揺れで、それを経験した人々が、明治22年地震で混乱している人々を静めようとしたが、西南戦争で史料が焼かれていて、説得できなかったという話が興味深い。
 そもそも、熊本では、過去の地震の履歴の整理そのものが進んでいない感じが、今回の地震以前からあった。今回の講演のレジュメで明治以降の大き目の地震が紹介されているが、そのなかで1894年のM6.3の地震で山崩れ18件、1975年のM6.1地震で山崩れ15件とある。熊本地震では、阿蘇を中心に土砂崩落による被害が大きかったが、熊本でこういう地震にともなう土砂災害が激しいという前提知識そのものがなかった。注意して被害記録をチェックすれば、熊本は地震に伴う土砂災害がむしろ多い土地柄であると予測ができたかもしれない。
 第六師団の被災報告書が、明治天皇の手元文庫に秘蔵されていて、今まで閲覧履歴がなかったというあたりもそうだが。近世に起きた地震で熊本城が壊れて、修理した記事なんか、熊本地震の後で報道されて初めて知った。熊本藩の行政史料から、関連記事の収集も必要なんじゃなかろうか。
 この機会に、そういう情報の集積が必要なのではないだろうか。細かい情報があれば、細かい地域で、どんな被害が起きうるか、予測がしやすくなる。


 あと、中世に白川が、川尻あたりで緑川に流れ込んでいたのは知っていたけど、近世にそこに水路があったというのは始めて知ったな。少なくとも18世紀の絵図に記載されている、で、いつ埋め立てられたか不明。人工の水路で、船も通っていたとか。