寺崎隆治他『補助艦艇奮戦記:縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情』

補助艦艇奮戦記―縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情

補助艦艇奮戦記―縁の下の力持ち支援艦艇の全貌と戦場の実情

 『丸』誌に掲載された回想記を採録、後半は小型艦艇や特務艦の戦歴を収録している。水上機母艦、大鯨の溶接の話、工作艦朝日の最後、輸送艦駆潜艇、掃海艇、敷設艦艇、水雷艇、砲艦、魚雷艇など。まさに、輸送を担った艦艇だよなあ。


 ガダルカナルで輸送に使われた日進。28ノット出せる高速艦は重宝しただろうな。しかし、この船ですら、輸送に使えなくなったガダルカナルの戦況の厳しさ。
 ほぼ全部溶接を適用した潜水母艦大鯨が、残留応力で船体が歪んで苦労した話。
 潜水艦と航空機が跳梁するなかでの、輸送の危険性。駆潜艇や掃海艇が航空機に脆弱だった姿。キスカ島で第15号駆潜艇以下が「撃沈」した潜水艦って結局なんだったんだろう。
 護衛に奔走する水雷艇鵯と、軍医の著者が、その後ニューギニアで苦労した話も印象的。つーか、よく生きて帰ってきたなというレベル。
 中国戦線で活動した敷設艇鴎と砲艦瀬田の体験記も興味深い。地上部隊の支援や水上交通の監視といった任務があったと。浅いところだけに、座礁の危険もかなりあったわけだ。
 最後は、魚雷艇開発の話。クラッチがないとか、中古航空エンジンが過熱して火を吹くとか、スクリュープロペラの形状が会わないとスピードが出ないとか、いろいろと問題だらけだったようだ。そりゃ、「実用性がない」扱いになるわな。それでも、前線では使わざるを得なかったと。


 後半は戦歴リスト。
 一等輸送艦の寿命の短さが印象深い。高速で武装も強いから、危険な輸送任務に投入されて、早々にやられたのかね。下手すると、一月、二月で撃沈されている船もある。一方で二等輸送艦は、結構生き残っているのが対照的。
 あと、敷設艦とか、駆潜艇が、あちこち根拠地隊を移動しながら、哨戒や護衛に従事している姿とか。
 駆潜艇とか、海防艦数多すぎ。
 給糧艦もおもしろいな。間宮が有名だけど、同じくらいの大型艦である伊良湖、あるいは小型の冷凍船なんかもあるのだな。間宮は二度も魚雷を喰らって、生き延びているのか。伊良湖も一度は雷撃をうけながら、回収されている。大型給糧艦は替えがないから、必死で守ったのか、この種の船は雷撃に強いのか。


 以下、メモ:

 それでも太平洋戦争が終わり、戦後になって日本海軍の用兵をいろいろと研究した連合国が高く評価したものの一つに、日本が水上機を有効に活用したことを挙げている。とくに商船を徴用して簡単な改造で水上機母艦に仕立て、これをいろいろなところで役立てていることは、他の国の海軍には例のないことだった。p.52-3

 へえ。確かに便利そうではあるが。

 昭和十四年、水雷学校教官であった林幸一大佐は航空機雷を、そして艦政本部部員の小山貞大佐は魚雷艇の開発製造を当局に強く要請したが、採用されなかった。また、米国のメーカーよりレーダーの売り込みがあったが、当局はこれを断わった。これらは、日本海軍全般にわたって「連合艦隊決戦第一主義」「速戦即決の短期決戦」「攻撃は最良の防御なり」といった風潮が浸透してたからである。p.131

 へえ。このときにレーダー買っていたら、どうなったんだろうか。つーか、この時期でも売り込みがあったのだな。魚雷艇はともかく、航空機雷は便利だったんじゃなかろうか。