日本の歴史と文化を訪ねる会『武家の古都「鎌倉」を歩く』

ヴィジュアル版 武家の古都「鎌倉」を歩く(祥伝社新書)

ヴィジュアル版 武家の古都「鎌倉」を歩く(祥伝社新書)

 うーん、「歩く」と銘打っていながら、あまり史跡の紹介がないのが最大の問題だと思う。あと、歴史観が少々古いような。
 鎌倉幕府の時代を中心に、鎌倉という都市の起源から現在までを通覧する。古代には鎌倉郡郡衙が置かれていたり、都市的というか、中心地的な場所ではあったと。頼義や義家の時代から、東国では鎌倉に拠点を置いていたと。
 しかし、源氏って、一族間で争いすぎじゃね。鎌倉時代に入ってからもすごいけど、それ以前も。一族内の内紛で、平氏にリードを許した感が。鎌倉時代にはいってからも、御家人間の争いやら、将軍の源氏が北条氏に政争で敗れていく過程も。二代将軍は辞めさせられるんだ。尼将軍北条政子の影響力の強さ。逆に、その影響力が頼朝の子孫の衰退を早めた感もある。
 そして、鎌倉時代に頻繁に起こる有力御家人の抗争。初めての武家政権ということで、いろいろと試行錯誤があったのだろう。


 個人的には、室町時代以降の鎌倉がどうなったかが気になるな。鎌倉公方の拠点ということで、一定の都市的性格は維持し続けたのだろうけど、都市としてのあり方はどのように変化していったのだろう。
 江戸時代に入ると、「武家の古都」、先祖の発祥の地として、聖地化されていくと。

西国の食糧不足
 東大寺は、頼朝も再建資金を出すなどして建て直されたが、必要な大木は山口県佐波川上流の山で伐採した。
 だが、巨木を流すには川を堰き止めて水位を上げねばならない。その堰跡から当時の木材が発見された。この木材を「年輪年代法」によって調べると、一一七七年から一一八六年の間の西日本は、気温が高く干魃期であったことが判明し、反面、東国では気温が上がって収穫量が高まっていた。
 京に入った義仲軍が食糧不足に悩まされ、義仲討伐に向かった鎌倉軍は、十分な食糧があったことが証明されたのである。p.114

 本文下のコラム。この種の年代測定って、どこまで信用できるんだろう。そもそも、飢饉って、流通の不全の影響の方が大きそうだけど…
 しかし、東大寺再建のための木材が、そのまま埋まって、回収できなかったのか…