渡辺昇一『続 知的生活の方法』

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

知的生活の方法 続 (講談社現代新書 538)

 先日読んだ『知的生活の方法』の続編。イギリスへの研究滞在の経験を元に、「スコットランド啓蒙」の時代の知識人がどのような知的生産の基礎を築いたかを中心に描く。「知的生活」への誘いとしては、最初の本より、むしろこちらの方がよく出来ているように思う。
 知的生活の伝統、『アイヴァンホー』などの大作を書いた小説家スコットの邸宅や伝記から、知的生産におけるインフラとしての蔵書の重要性やとにかく書き始めて一定の時間を使い続ける「機械的持続性」の重要さ。ヒュームやハマトンに見る「知的独立」の基盤としての恒産の重要性。フランクリンの作文修行を題材とした英作文訓練の方法など。


 第1章は、東京大学に哲学の教授として招聘されたケーベルが、東大の教授たちを否定し、旧来の日本の学問を修めた人物に対し評価した記述から、「知的生活」と「知的生産」の差異を指摘する。
 近世の儒学とか、学問は、単純な知的アチーブメントではなく、基本的には「人格教育」というべきものだから、やはり、歴然とした違いがあるのだろうな。幕末佐賀藩でスパルタ養成された技術者をみたら、ケーベルはどう評価しただろうか。
 そもそも、儒者の生活スタイルが、中国の士大夫層の生活スタイルだし、そういう点では近代ブルジョアジー的な生活規範を身につけたケーベルにとっては、割と親近感を覚える性質だったのかもしれないな。
 で、そのようなブルジョア生活様式は、やはり広くは普及しない質のものではあるのだろう。


 第2章は、蔵書形成と精神余裕のおはなしとか、ウォルター・スコットの生涯に知的生産の理想像を見る話。つーか、「蔵書とほほえみ」のあたりは、戦後イギリスで、「ジェントルマン的生活スタイル」が廃れていく過程とも言えそうだな。
 多数の大作を物したスコットの生活から、運動の習慣づけの重要性、あるいは交際の重要性の話なども。


 第3章は、引き続きスコットの知的生産の姿から、知的生産への話。
 「機械的に」毎日著述する習慣が、大規模な知的生産には重要と。英米や日本の小説家の著述に対する態度から、毎日、一定時間を著述に割き続けるのが重要と。また、論文などを書くときには、とにかく書き始めることが重要という指摘。まあ、それ以前の構想の部分で引っかかる人が多そうだけど。
 後半は、蔵書の意味。参考資料が手元に集積されていると、書くスピードが圧倒的に違うと。これは、確かに感じるな。つーか、熊本にいると、蔵書が薄くて、それ以前の資料の収集で躓く感じだけど。手元にじっくりと蓄積していくことが、生涯にわたって知的生産を続ける基盤になると。


 第4章は、「知的独立」ということで、自由にモノを言うためには、生活の基盤となる恒産が必要になるという話。ヒュームが、恵まれないところから、財産を築き上げ、そのために分かりやすい文章を書くためのトレーニングをしたという話など。
 低金利でほとんど預金の意味がなくなった時代。さらに、非正規雇用ばかりの時代になった現代にこそ、この辺りの「知的独立」は意味が大きくなっているな。その一方で、それを手に入れることも難しくなっている。金利がここまで低くなると、金融資産といっても、リスク資産に投資する破目になるしなあ。


 最後の第5章は、フランクリン式英作文練習法や、著書出版の話、受動的知的生活と知的生産、内省の効用など。

 しかしこれはなにも日本に限ったことでなく、イギリスのような階級意識が残っているところでは、もっときびしい面がある。カトリックの神父が独身であることは、いかなる階級の人の家にも同じ立場で訪問できるから有利である、とプロテスタントのイギリス人が書いたものを読んだことがあった。貴族の城に出入りするカトリック司祭、たとえばイエズス会士が同時にスラムに出入りしても少しも違和感がない。しかし家族持ちのプロテスタント牧師のばあいは、その教会に出入りする家庭の階級と、その牧師の社会的地位のあいだに相関関係があるという、アメリカの社会学者のレポートもある。これはカトリックとかプロテスタントという教義上の問題でなく、家族持ちか否か、という次元の問題のようである。p.170-1

 これはあるのだろうな。結婚が、社会的ポジションを固定化する。
 現在の日本のような「家族」が崩壊して、お一人様でも平気な社会はともかくとして、英米なんかだとカップル前提みたいな束縛強そうだから、独身のハンデも大きそうだけど。