和田裕弘『織田信長の家臣団:派閥と人間関係』

 織田信長の家臣団を、出身地や血縁などによる人間関係の観点から分析した本。戦国大名については、あんまり興味ないけど、こういう「家臣団」という人間の集団はおもしろい。谷口克広氏の諸著作と通じるところがあるが、初期の家臣団を重視しているのが、長所か。
 とりあえず、索引が充実しているのが、便利ですばらしい。
 しかし、戦国時代の武将の系譜関係とか、本当に分かりづらいのだな。この当時に作成された系図や記録類があまり存在しない。一族の血縁関係が政治的なパワーになっていたことを考えると、細かい親族関係に興味ないってわけではないだろうけど。曽祖父あたりまでだと、いちいち書き残しておくほどでもなかったってことなのかな。
 江戸時代に由緒が重視されるようになって、改めて聞き取りしても、そりゃ、いろいろ混乱するわな。ついでに、自分が有利なように改竄したいという欲望もあるだろうし。


 そもそも、信長の家系は、尾張守護代織田氏の傍流で、父信秀の代に、軍事的成功によって成り上がった。その上で、信長自身が主筋の主要な家を倒して尾張を統一している。そのため、有力な一門衆が存在しない。また、信長に代替わりした初期に、主だった家臣が、弟信勝について刃向かっているので、信長の行動を掣肘する有力な勢力が存在しなかった。その上で、側近集団を掌握できるだけの軍事的才能というか、カリスマ性が本人にも備わっていたってことなのだろうな。
 祖父の代に津島を支配下に入れたのが最初の飛躍で、初期の家臣団はこの津島衆が核だった。初期には、佐久間信盛柴田勝家をツートップに、木下秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆、森可成坂井政尚滝川一益中川重政、斉藤氏攻略時に傘下におさめた美濃三人衆といった面々が、上洛時の有力部将だったようだ。ここから、幕臣、浅井朝倉旧臣を吸収しつつ、家臣団が拡大していく。
 浅井・朝倉・本願寺を下した後は、信長は直接指揮をとらなくなり、有力部将に各正面を任せる「方面軍」制に移行していく。
 佐久間信盛が簡単に追放されたのは、重臣間での婚姻関係や信長自身との血縁関係を持っていなかったことと指摘されているのが興味深い。信長家臣団の中で、信盛は孤立していたのか。一方で、柴田勝家は、尾張出身の有力部将に婚姻ネットワークを持っていたが、その対象である森可成和田惟政、塙直正は元亀の騒乱の過程で戦死。彼らが存命なら秀吉の台頭がありえなかったかもという。そうしてみると、本願寺との戦いは、織田家にとってもダメージの大きなものだったと。押しも推されぬ後継者織田信忠は、強力な戦力をあずけられていたが、本能寺の変で中枢を失い瓦解。同じく信長の子の神部信孝の四国征討軍は、編成して間もないため、本能寺の変で瓦解。滝川一益軍も解体。秀吉と勝家の軍勢が、まともに生き残っていた部隊なのだな。
 外様で重用した明智光秀荒木村重松永久秀らがことごとく、反乱を起こしたあたりに、外様衆の扱いの難しさがあるな。あと、明智光秀の軍団が、美濃衆・西近江衆・丹波衆で構成され、尾張出身者が居なかった。これが、明智光秀のクーデタを可能にした要因であるという指摘も興味深い。


 丸島和洋戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』の武田氏の家臣団と比較すると興味深い。信玄・勝頼も、有力な一門衆が存在しないが、こちらは内紛であらかた潰してしまった。これに対し、信長の場合、二代で成り上がっただけに、近い親族がいずれも小身だったというのが、正確なところか。一方で、北条氏あたりは、一門衆の結束が強かった一族と言えるかな。
 あと、尾張が狭かったせいか、これと言った統治組織を作ってないのが印象的だな。逆に美濃征服移行は、急激に拡大していって、そういうことをするどころではなかったのだろうな。