細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』

鎌倉将軍・執権・連署列伝

鎌倉将軍・執権・連署列伝

 図書館の書棚で見かけて、読もう読もうと思っていた本。今回、やっと撃破。タイトルの通り、鎌倉幕府の中枢を担った歴代の将軍や北条家の執権・連署を、各人ごとに紹介する本。一人5ページほどの割り当てで、まあ、サクサクと読める本。
 こうして見ると、「鎌倉幕府」の本体は、将軍の家政組織で、家政組織を設置できる官位の人間なら、神輿は融通が利いた感じだな。


 源頼朝の家系が息子の世代で絶えてしまったのが、ボタンの掛違いの始まりだよなあ。頼家には、武蔵の武士団や義経・範頼といった頼朝の弟たちを藩屏とするように構想されていた。しかし、京都の朝廷に取り込まれた義経の反逆が、頼朝の構想をご破算にする。結果として、北条氏とパワーバランスが近接し、政争の中で敗れ去ることになる。その後、弟の実朝も暗殺され、頼朝の家系は絶える。朝廷との関係が悪化して、親王を将軍として迎えることができなかった鎌倉幕府は、頼朝の妹の血を引く九条道家の子頼経を将軍として迎える。親王が欲しかったけど、手に入らなかったから、「源氏」の血が濃い人物を引っ張ってきたと。
 頼経が将軍宣下を受けるまで、政所を開く権利がなく、その間は北条政子の政所として、運営されたという話が興味深い。
 摂家将軍が二代続いた後、親王将軍の時代になる。親王は生まれながら政所を開くことができる。「年齢に関係なく将軍儀礼を遂行可能な将軍」が必要だったというのが、興味深い。
 また、将軍は将軍である限り、人を集め、それなりの権力を持ち出す。そうなると、北条氏と対立し、京都に追い出されているのが興味深い。細心の注意を払う必要があったと。あとは、それぞれの将軍が、更迭されたときの待遇の違いとか。円満離婚から、罪人同様の扱いまで。


 鎌倉時代後半の得宗家の短命化も興味深い。三代目執権の泰時までは、60代まで生きているが、その後、四代目の経時以降、30代で死亡する例が続く。著名な時宗も、30代で死んでいるのだな。
 「得宗専制」と権力が強まる印象だが、実際には、家政機関である御内人の力が強くなっていく。将軍の家政機関である政所や侍所を押さえた北条氏、さらにその家政機関を抑える平頼綱という二重構造が興味深い。
 時貞、師時、宗方の「義兄弟」政権による、得宗家に権力を再集中の試みが挫折した「嘉元の乱」が一つのターニングポイントだった感じだな。時貞の命で、北条氏の長老、連署北条時村を、北条宗方が殺害。しかし、庶家の巻き返しで、宗方を討つ羽目になった。結果、時貞は政権運営の意思を失ってしまう。
 その後は、最後の執権北条高時が就任するまで、庶家出身の執権が続くことになる。一方で、実権は御内人にあったのだろうな。
 鎌倉後半の政治構造は執権や連署では、見えなくなっているように思う。


 以下、メモ:

 今世紀初頭における頼朝関連の最大のニュースは、『三槐荒涼抜書要』所収『山槐記』建久三年(一一九二)七月条の発見・紹介により、征夷大将軍任官の事情が明らかとなったことである。頼朝が申請したのは「大将軍」任官であり、朝廷は候補に惣官大将軍・征東大将軍征夷大将軍、中国に例のある上将軍をあげ、惣官は平宗盛、征東は木曾義仲の先例を不快として、上将軍は中国の事例であることを理由に退け、坂上田村麻呂を吉例として征夷大将軍を選び、頼朝に授けたのである。つまり、頼朝は単に「大将軍」への任官を希望したのであり、「征夷」は朝廷によって選択されたもので、すなわち頼朝の「征夷大将軍」任官は結果に過ぎなかったのである。p.15-6

 へえ。つまり、奥州藤原氏を狙って、征夷大将軍と言うわけではないと。

 惟康の親王宣下は、俗人の孫王としては史上初のものであった(摂関期において東宮を辞退した小一条院敦明親王の王子女が親王宣下された例はあるものの、院号を賜った前東宮という敦明の特殊な立場が考慮されてか、先例のうちに数えられていない。これは、第九代鎌倉将軍守邦親王の場合も踏襲された。しかし孫王に対する親王宣下はこの時期、鎌倉将軍だけにとどまらず、他の傍系皇族においてもみられるようになった。親王が代を重ねることによって「宮家」と呼ばれる天皇家の分家を形成していく萌芽が生まれたのである(最終的には室町前期に成立)。幕府から強要された先例破りを甘受した後、それを慣例化させ、自分のものとして取り込んでゆく。権力を失って久しい朝廷の持つ、したたかな一面かもしれない。親王将軍の系統は宮家として存続しなかったが、惟康の親王宣下は、その契機を生んだものとして評価されよう(親王将軍の系統では、久明親王の王子か王孫とされる熙明親王五辻宮家を立てしばらく存続したといわれるが、宮家の動向・系譜ともに詳らかではない)。p.113-4

 実態的な権力を失った後の朝廷は、こういう概念の操作が本分と。
 幕府から強要された先例破りを利用して、自分たちの利益となる宮家形成の路を開いていったと。