熊本史料ネット主催講演会「学んで守ろう熊本の歴史遺産:大慈禅寺と本妙寺:被災寺院の知られざる歴史と現在」

 なんか文章がかけない。二日遅れでまとめ。
 あと、ちゃんとメモできないと、どうもな。シャーペンどこに消えたんだろう…


 熊本地震で大きな被害を受けた大慈禅寺本妙寺が、どんな性格を持った寺かを紹介する講演。大慈禅寺は、被害額3億。主要な建物が片っ端から損害を受けている。本尊大破、梵鐘が落下と、ものすごい被害を受けている。
 大慈禅寺本妙寺、どちらも、海外との関係が非常に深いという性格が共通している。そういう視点で、両者をつなげたことなかったな。特に、本妙寺が外交と関わるというイメージは全然なかった。


 最初は、大慈禅寺の話。
 開山の寒巌義尹が、同時代の禅律の入宋僧の中に位置づけられること。また、蒙古襲来前後の政治的緊張の中に、大慈禅寺の設置が位置づけられると言う話。
 寒巌義尹は博多の綱主と関係が深く、その拠点となる杭州周辺の仏教聖地を回っている。重源や栄西も同じような行動をしている。13世紀後半から14世紀前半は、宋代仏教導入の運動が盛んで多くの僧が入宋している。これは、戒律復興運動であった。
 そして、入宋した日本人僧侶や宋から渡来して来た僧を迎えて、寺院を建てることが、北条得宗家を中心として行われた。これは、「生きた唐物」である渡来僧を確保することがステイタスであった側面と同時に、港町をむすぶ禅宗のネットワークを押さえることで、大陸の最新の情報を入手するという側面があったと。鎌倉や博多、九州各地に、北条得宗家関係者と地元の豪族によって、禅宗寺院が作られているが、大慈禅寺も同様の動きに位置づけられると。従来、西大寺系の律宗の役割が、研究史的に注目されてきたが、
 国際港湾としての川尻というのも興味深いな。道元が何層から着船した「開眼の浜」というのが、川尻にあるそうで、海外からの船が入ってくる港でもあったと。また、中世には、白川と緑川が合流して、この地域に河口を形成していた。さらに、西海道の陸路が通るルートと、交通の要衝であった。
 そこに、寒巌義尹が勧進元となって、大渡橋が架けられた。これも、蒙古襲来に対応した「軍道」としての意味が大きかったという。また、この橋の維持管理のために大慈禅寺は建設され、海側の未開拓地の開発も託されたと。その後、干拓が行われた。
 中国の技術者との人脈関係も、他の入宋僧と共通と。大渡橋の建設でも、そのような南宋の人材導入が考えられると。


 2番目は、本妙寺について。
 加藤清正墓所として名高い日蓮宗寺院。初期の鉄筋コンクリ建造物である仁王門の地盤沈下や参道の石灯籠が大量に倒壊するなどの被害が出ている。
 本妙寺文書を調べると、本妙寺に宛てられた文書以外に、本来加藤家文書に含まれているべき文書や外国とやり取りした「外交」文書が含まれていると。
 このうち、加藤家文書に含まれているべきものは、加藤家から寄進されたものや加藤家改易後に散逸したものが、他の人から購入寄進されたものである。一方で、外国から出され、加藤清正を宛所とした文書に関しては、本妙寺が外交の実務を担っていたからではないかと指摘する。
 外交僧というと禅宗のイメージだけど、確かにまともな漢文が書ければ、他の宗派でもいいんだよな。開山の日真は清正について朝鮮に出ているし、三代目の住職は朝鮮半島から連れてこられた人物と、海外とのかかわりは濃厚。加藤時代の海外との関わりを象徴するのが本妙寺と。
 これに関連して、清正と家康の外交権をめぐるアレヤコレヤという話も興味深い。清正が家康を封じ込めようと動いたのか、あるいは、下請けとして活動したか、今後の研究が待たれると言う。
 あとは、清正がアグレッシブな日蓮宗信者になった理由として、朝鮮出兵の先鋒を担うために肥後国を任されたという政治的使命と、日蓮がこの時代、海外との戦争や防衛に密接に関連すると認識されていたこと、この両者が結びついたためという指摘も興味深い。


 休憩の後は、宮城歴史資料保全ネットワークの平川新氏のコメント。
 2003年の宮城県北部地震以来、連綿と続けられてきた史料レスキュー活動の蓄積。素早く的確なレスキューのために、災害が起こる前に、所在を掴んで情報を蓄積していおく必要があると。また、災害に限らず、建物の改築などによる史料の消滅は進んでいるので、平時から、そのような活動が必要であると。
 あとは、教育委員会ルートで、所蔵者の信頼を得ていく必要性やマスコミに報道してもらうことの重要性。全点撮影とそれをデータベース化・公開する活動など。
 松島の海中から大量の板碑が発見されたり、瑞巌寺の礎石に五輪塔の一部が使われたりと石造物が遺棄されている。あるいは、ビスカイノの『金銀島探検報告』にみられる石造物遺棄の報告と、熊本城で石垣から発見された破壊された板碑をつなぎ合わせると、この時期に宗教観の大きな転換が想定できるという指摘もおもしろい。五輪塔や板碑を石垣に転用している事例は、福地山城や大和郡山城が有名。全国的に多数あるようだ。転用石 - Wikipediaだと、逆の見解になるのが興味深い。ただ、松島や熊本城の事例は、明らかに隠しているというか、廃棄の事例だからなあ。