木村直樹『長崎奉行の歴史:苦悩する官僚エリート』

 長崎奉行が、任地でどのような課題に直面したかを、時代を追って明らかにする本。江戸時代を通じて、金銀銅の産出が減少していき、それにともなって買える商品量が減り続ける。ずっと不況の都市なんだから、そりゃ、苦労するわな。
 あとは、割と広い範囲で密貿易が行われていたってのも興味深いな。天草が何度か出てくるが、本当に海外との交流は大きかったのだな。
 長崎奉行は江戸に役所がなくて、引き継がれた文書は奉行の自邸に保管されることになる。このため、高級旗本の文書散逸とともに、一緒に散逸してしまって、長崎奉行の実務文書があまり残っていないという史料状況も興味深い。


 17世紀段階では、「官僚制」が整備されていなくて、個人の力量で統治や外交が行われる。将軍の個人的な信任が重要な時代。最初は、輸入品を先買いする役目から、キリスト教禁令の使者、島原の乱で長崎常駐の仕事へと変わっていく。
 老中との直接的な指揮命令関係。任務としては、キリスト教徒弾圧、長崎の整備、日本側に有利な貿易制度の導入、密貿易の取り締まり。
 清と鄭成功一族の対立、鄭成功とオランダの対立が、波及。調停に追われるってのもおもしろい。幕府が裁定して、賠償金を取り立て、被害者側に渡すという行為を行っているそうで。あと、ゼーランディア城陥落の時には、家族も含めて日本に避難してきていたり。引きこもっていても、余波は来ると。


 18世紀になると課題が変わってくる。
 貿易が縮小していく中で、貿易に伴う金の流れを透明化し幕府に吸い上げる動きと地元長崎の事情によりそう路線で、どうバランスをとるか。どちらに偏っても、失敗する。
 あまり長崎の事情に寄り添うと、絡めとられて、汚職で失脚することになる。逆に、長崎に強硬路線で臨めば、敵意の中で孤立することになる。あるいは、結局、取り込まれて失脚する。危ういバランスの中での綱渡りを強いられることになる。これをこなした奉行として久世広民があげられる。
 あとは、役得の大きさとか。


 19世紀にはいると、問題のあり方が変わってくる。ヨーロッパの大国間の戦争が、日本に波及してくる状況。長崎奉行は外交の第一線に立つことになる。ナポレオン戦争で、オランダ本国が占領、東南アジア植民地はイギリス管理になる。この状況で、アメリカ船をチャーターして貿易を維持する。しかし、長崎の情報を得たアメリカ人の船長が、今度は独自の交易を目指して日本に出没する。
 あるいは、イギリスがオランダ商館の接収を狙って人を送り込んだり、フランス船の有無を偵察するフェートン号事件のような、戦争の場ともなってくる。海外情報を得るために、オランダとの関係強化の必要性が出てくる。
 あるいは、ロシアの極東進出と貿易や国交を求めて、頻繁に出没する状況。
 海防の拠点として、長崎には大量の台場が建設されていくことになる。
 長崎奉行であった遠山影晋の日記から、江戸での奉行の出仕状況や、勘定奉行との連携が重要になっている姿の紹介。あるいは、貿易の衰退で中国人が暴れるなどの問題山積みな状況も。


 エピローグでは幕末の状況。
 全国的な「海防」が課題となり、長崎奉行は外交の中核から外されていくことになる。また、海外への開港が行われると、貿易や交渉のノウハウを持つ長崎の人々が、他の開港場に引き抜かれて、実務の人材が空洞化する。
 一方で、都市としての長崎の統治は、大量の外国人の居住、特に中国人が多く入り込むことで繁忙を極めるようになる。
 権限の空洞化と目先での繁忙という見通しが指摘される。


 重要なポストということは、それだけ難しい仕事でもあるということなんだな。


 以下、メモ:

 その後、馬場が長期にわたって長崎奉行であり続けたため、細川家としては、他の九州の大名よりいち早く情報を入手するために、馬場に便宜を図っている。
 その一つが、資金運用による利殖の保証である。具体的には、馬場から細川家がある程度まとまった金額を預かり、それを藩が家臣に貸し出し、その資金が利息を付けて戻ってくるので、それを馬場に戻すという方法である。
     (中略)
 馬場からの情報提供や便宜に対して、利殖を代行することによるお礼をする。この事例は。たまたま、そのような史料が豊富に、細川家そのものや家老の松井家の史料の中に残されたためにわかった、長崎奉行と大名家との関係の一角にすぎない。実態としては、長崎にかかわる九州の諸藩は、馬場や山崎との関係強化に努めていたことは想像に難くない。p.41-2

 細川家による長崎奉行の利殖の代行。こういう、私的な関係が張り巡らされていたのだろうな。

 この時期、まだ長崎奉行から各藩への命令など諸連絡は必ずしもシステマチックに、奉行と各藩の任命したしかるべき役職との間でおこなわれるような関係ではなかった。言い換えると、近世中期以降のように、ある役職の人物が交替しても、その次に役職に任じられた者が自動的にその任務を継承して、連絡などに不備が発生することはないという仕組みができていないということになる。
 むしろ、情報入手などは、個人対個人のの関係に基づいておこなわれる側面が多くあるのが、十七世紀前半の政治状況であった。馬場利重が十六年間も長崎奉行の職にあり続けたことも、またそれにかかわって細川家が天野屋を交渉の窓口としたことも、役職や制度がまだしっかりとした状況になかった当時の社会を反映している。細川家が、長崎の蔵屋敷の責任者として聞役(細川家の場合は家中では長崎留守居と称していたようだ)を任命したのが、実際に史料上確認できるのは寛文七年以降と見られる。
 その意味において、長崎奉行という職は、長崎奉行の職務や資質はこのようにあるべきで、それにあった人物を選ぶというよりは、うまくいきそうな人物を充てて、その人物の裁量でおこなうことが職務内容、という理解の方が近いと言えよう。職があって人を充てるのではなく、人に職を充てるという時代である。p.45-6

 戦国時代もこういう状況だったんだろうな。おおまかに、そっち方面をお任せと。