- 作者: 日本史史料研究会,呉座勇一,
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2016/07/02
- メディア: 新書
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第一部は、文字通り「建武政権」の位置づけについて。従来、特異性が強調されてきたが、むしろ、前の鎌倉得宗政権や次の室町幕府との連続性を重視する研究動向が優勢になりつつある。鎌倉時代末期の朝廷の政治改革や武家官僚の人員構成に着目すると、連続性の方が強くなる。
朝廷の政治に関する研究の進展。院評定や徳政、裁判制度改革といった鎌倉末期の朝廷の政治動向、後宇多の検非違使庁を使った洛中支配の継承といった、後醍醐の特異性より、継続性を強調する見解が強くなっている。
また、裁判組織などの人員構成を見ると、上級公家・実務官僚に加えて実務に強い武士を加えた組織編成が多くみられる。雑訴決断所には、鎌倉幕府で裁判実務を担った奉行人、特に北条氏と強い関係を持たなかった六波羅探題の奉行人が多数含まれていること。その後、室町幕府が開設されると鎌倉幕府の奉行人も集結してくる状況が見られる。武家官僚の人員構成の側面からは、継続性が特に強いと。
足利尊氏が、特に、建武政権に反抗しようと思って行動していたわけではない。状況と周囲の意思に流されて、後醍醐と敵対した。「八方美人で投げ出し屋」という評価がおもしろい。また、足利氏は、北条家と累代の血縁関係を持ち、準一門といった立場にあった。そのため、離反のタイミングを失えば、一緒に滅ぼされてしまう立場だったという。源氏の嫡流といった認識は、同時代ではほとんどなかったと。
第二部は、南朝についた武将たち。
鎌倉陥落後も、生き残った北条氏の一族は、反乱に担がれた。また、北条氏を旗頭にした反乱は、規模が拡大しがちだったという。それだけの「権威」が北条氏にはあったと。その最大のものが、北条時行による中先代の乱だったと。実力で鎌倉を奪取したことから、「中先代」という位置づけになったと。また、その後、北条一族は南朝と協調姿勢をとるが、これには、ほとんど身内という立場にありながら、裏切った足利氏への怒りがあったという。
あるいは、足利一門としての新田氏。北畠親房の家系が、大覚寺統と強いつながりをもっていたことが、親房を「南朝の忠臣」にしたという話。あるいは、楠木正成が北条得宗家の被官であり、畿内の武士団ネットワークの中の一員であり、「異端」とは言い難いなど。
第三部は、建武政権や南朝の人事など。これ、第一部に併合してもよかったように思うが、それをやるとバランスが悪くなるのかな。
建武政権は武士を軽視していなかった。むしろ、恩賞などは手厚い傾向があり、公家の反発を買っていた。しかし、公平な恩賞分配を行おうとすれば、恩賞の配分が遅くなり、それが武士の反発を招いた。足利政権では、出先の指揮官に恩賞の配分を任せ、スピードアップを図った。
あるいは、南朝の宮廷実務を支えた蔵人たちの人員構成を検討した章や後醍醐の宗教との関わりを検討した章。宗教に関心が深かったといえるが、「異形」とまで言えるかは疑問と。
第四部は、南朝衰退後の状況をメインに。
南朝勢力が、敵対勢力に対するレッテル貼りに利用された状況。特に、関東では、実質的勢力がなくなった後も、鎌倉府への敵対勢力を弾圧するのに使われた。また、後南朝の皇族たちが、不満分子の神輿になった状況。それも、自己の勢力拡大の道具であり、担がれた皇族は、たいがい悲惨な末路をたどっているとか。
熊本も関わる征西府の話が、身近だな。唯一成功した軍事拠点。懐良親王が、もともと阿蘇氏と関係を持っていたのではないかという話。あとは、九州武士の自立を目指す「九州の論理」と南朝の出先機関としての性格の両方があり、可能性としての「九州国家」というのもありえたと。
あとは、皇国史観の話とか。平泉澄の言論と「皇国史観」は微妙に違う。あるいは、実証史学の面では結構鋭い。しかし、「志」がある人間だけが取り上げる価値があるねえ。