出水神社五十年祭記念碑の往時と現況

 水前寺公園の正門横の、ちょっと高くなったところに建っていた石碑。熊本地震で倒壊して、現在は、敷地の奥のほうに横たえてある。地震前は暗くて、写真から文章を読み取るのが難しかったが、現在は、ちょうど碑文を上に向けているので、読みやすくなっている。
 しかし、変体仮名の嵐で、これは厳しい。2014年に写真撮って、そのままお蔵入りしていた。今回は、しばらく前にKulaでちょっと勉強していたから、読めた感じ。一昨年の方が読めている文字もあったけど…
 撰文は当時の県知事か?



    ↓




石碑表面

崇徳報恩




        県社出水神社五十年祭奉賛会
             総裁従三位男爵細川興増篆額
明治十年の役我銀杏城下悉く兵災に罹り一朝焦土と為り庶民
亡失人心渙散して適帰する所を知らず是に於て有志の士奮起して以へらく
今や凍餒の苦を救ひ生理を保つの法は官既に之を慮措する所あり若し人心を改合し各其
堵に安んせしめむと欲せは衆望に従ひ其崇敬する所を祀りて勧奨淬励せむに如くは無しと乃ち胥謀り
旧藩公祠堂の造営を願ひ官許を得たり時に明治十一年五月なり各勇躍して義金を醵出し甘棠の意を寓して
地を細川公旧別墅に卜し衆思を萃め群力を竭し新築落成して細川氏中興の祖幽斎公其子三斎公其孫妙解公及ひ八代
霊感公の四位を祀り盛に祭典を行ふ尋て県社に列せらる出水神社即ち是なり謹みて按するに幽斎公は文武兼備仁厚善
を恤み士衆悦服す居常 王室の式徴を憂い名分を正し綱紀を復せむと○す其田辺城に籠るや 後陽成天皇曰く幽斎は
帝王の師範神道国師なり若し命を殞さは斯道絶滅し亦世に伝ふる者なからむ速に開城せしむへしと公 叡慮を拝して
遂に重囲を脱せり而して薨後長岡明神の号を賜はる三斎公は順逆を明らにし正邪を弁し剛決果断義勇忠直なり妙解公初
めて封を肥後に受け父祖の遺訓を恪守し武を講し文を修め心を済世安民に注き利用厚生の道至らさるなし是に於て四民寒
苦を免かれ生聚の楽あるを知る公の子孫皆偉業を紹述すと雖も承平日久しく余弊稍生す八代霊感公の襲封に及び夙夜匪懈力を牧
民の職に尽し光明にして私照なく至公にして親疎なく国政を一新して政教悉く挙り徳澤闔藩に遍く黎庶○慮して鼓腹歌頌
するに至る惟ふに藩祖の基を建て訓を垂れしより明治四年廃藩置県に及ふまて殆と三百年士民泰平の治に浴せしもの固
より 王化の光被するに由ると雖も抑も亦藩祖三代の遺徳に基き霊感公政教の陶鋳する所多きに居る其四公を祀る所以な
り後有志又議して曰く吾等恩沢を蒙りしもの豈獨四公のみならむやと遂に細川公歴代の神位を以て悉く之を付祀す今茲昭和
三年は正に創建五十年に当るを以て官民協力して奉賛会を設け蘋藻の典を営まむことを謀る闔県翕然として相和し欣然
として其資を助け醵集せし金額弐萬数千円に達す細川今公亦金壱萬円を寄与し給ふ仍て社殿後方の石欄を修築し社
務所を改築し秋季祭を期して大祀典を挙く四方来けり賽する者日夕塵集し神徳愈崇を加ふ嗚呼是当に報賽欽仰
の誠を輸すのみならす亦以て敬神崇祖の衷を鼓舞し報本反始の情を作興し風教を維持し民俗を敦厚ならしむる
に足らむ聊か本社創建の由来と五十年祭奉賛会の行事を併記し之を貞�愬に勒して以て後毘に伝ふ
         県社出水神社五十年祭奉賛会会長従四位勲三等斎藤宗宣撰文
                     評議員従五位勲五等宇野東風謹書
   昭和三年十二月吉辰



石碑裏面

昭和四年十月吉日建之