くまもと文学・歴史館友の会総会記念講演会「熊本の文化遺産」に出撃

 県立美術館とどっちにするか迷ったが、県立図書館の講演を選択。くまもと文学・歴史館館長の服部英雄氏の講演。アジアとのつながりの深い、熊本の文化遺産の紹介。
 江田船山古墳、鞠智城、川尻大慈寺と銭塘、菊池一族、滴水瓦、天草の漂着船と中国語通詞、橋と橋碑といったトピック。現在の熊本では、大陸との関係というのは、見えてこないが、意外とつながっていたのだな。


 江田船山古墳出土の鉄剣銘からは、中国系の名前を名乗る金工が漢文を刻んだこと。副葬品にしても、大陸的な文物が珍重されていたことが分かると。被葬者が「ムリテ」という名前だから、余計違いが際立つな。


 次のトピックは、鞠智城。かなり内陸にあるが、これも、有明海からの唐・新羅をにらんだ立地ではないかという指摘。文禄慶長の朝鮮出兵時に、逃げ込みの朝鮮式山城がそんな状況だった。873年に渤海遣唐使が漂着したり、893年には新羅の海賊が飽田郡に侵入すると、実際、有明海方面が狙われることはありえたと。
 立地的にも、河口から30キロ、潮汐限界から20キロの距離は、他の朝鮮式山城と大差ない。


 続いて、大慈寺と銭塘。ここと次の菊池氏の話がメインかな。干拓の話が多かった。大慈寺の開祖寒巌義尹が二度入唐するなど、大陸との関係が深い人物であった。また、大陸から技術者を導入して、緑川への架橋や銭塘の干拓が行われた。銭塘は周囲より、30センチほど標高が低く、それだけ、技術力が必要であったと。それでも、安定した耕地とはなりえなくて、文明年間や天文年間に、破堤して、海に戻っていると。
 一方で、周囲は標高2メートルを越していて、高潮用の堤防程度で、なんとかなったと。地名からすると、鎌倉時代干拓は、小規模な堤防で囲い込むような形で行われた模様。また、干拓地には共通した地名が残り、堤防の築籠、領主直営地の佃、用水維持費用を捻出する井料、寺の運営費に充てられる仏性、神社の運営費用の免(伊勢免、龍神免、志賀免など)が複数の干拓地で見られると。


 菊池一族と竹崎季長は、菊池氏が、中国との交易を通して、かなりの富を蓄えていたらしいこと。たとえば、蒙古襲来絵詞で、菊池武房が刀の鞘に虎の尾を使っているが、絵詞全体で、他に虎の皮を使っているのが少弐景資の鞍の泥障程度。無位無官の人物が本来使えるものではない。そもそも、蒙古襲来絵詞の岩絵の具が、高価な輸入品。これらの富の背景には、中国との交易があると。
 菊池川河口では、鎌倉期の輸入陶磁器が、松本コレクションとして採集されている。輸出品としては、日本特産の杉や桧などの木材、軍需物資としての硫黄などが考えられる。


 あとは、時間の関係で駆け足になった。
 熊本城や麦島城、宇土城などで発見された滴水瓦は、大陸の瓦で、秀吉の朝鮮侵攻の際に、日本に来た陶工によって焼かれたと考えられる。単なる捕虜ではなく、技術者として、機会を求めて移住してきたのではないかと。
 これに関連して、和泉国森光寺の大般若経書写のスポンサーとなった、蒙古襲来時の捕虜の軍人何三於のように、捕虜=奴隷ではなく、技術者として重用された可能性が指摘される。
 天草に頻繁に「漂着船」が来て、江戸時代を通じて通訳が配置されていたと。どこかで聞いた話と思ったが、木村直樹長崎奉行の歴史:苦悩する官僚エリート』に出てきたな。密貿易にやってくるからには、中国人と天草の人々には、人脈があったと思われるが。どうなっていたのだろうな。
 橋と橋碑は、中国では、石橋とそれに関する石碑がセットになる文化があること。これが、近世末の肥後の石工のかけた橋にも継承されると。技術導入に大陸との関係が考えられると。あと、古い橋に関しては、沖縄に集中しているというのも興味深い。恒久的な石橋は、近世末まで、琉球国どまりだったと。