都司嘉宣『千年震災:繰り返す地震と津波の歴史に学ぶ』

千年震災

千年震災

 前々から気になっていていた本。産経新聞に連載された歴史地震に関する連載をまとめたものに、全体の1/4におよぶインタビューを加えたもの。東日本大震災をうけての企画かな。インタビュー部分は、東日本大震災がメイン。建物の被災情報を集積し、建物の損壊状況や損壊率から、震度を割り出しているのが、寒川旭氏の著作などの他の歴史地震本との違いかな。もちろん、当時の建物と現在の建物は耐震性がかなり違って、現代のものさしとはだいぶずれるのだろうけど。
 あと、こうやって、歴史的な地震を整理すると、本当に詳細な情報が残っているのは、せいぜい、ここ300年くらいのものだな。特に、中世の情報の欠如が大きいように思う。


 全体の構成は、序章「緊急報告 東日本大震災 1000年に一度の大災害の読み解き方」、第1章「太平洋側が相次いで揺れた 安政年間の大地震」、第2章「日本を襲う津波の恐怖」、第3章「東日本を襲った大地震」、第4章「西日本を襲った大地震」から成る。
 序章は、かなりの分量を割いた、東日本大震災についてのインタビュー。まだ、被災地は物流が回復していなくて、茨城・千葉に調査をとどめていた時期。岩手や宮城の津波被害が衝撃的で、そればかり記憶に残るが、実は茨城・千葉でもかなり巨大な津波をうけていたと。千葉県旭市飯岡は、浅瀬が突き出ていて、津波のエネルギーが集中しやすい地形。東日本大震災だけでなく、チリ地震津波などでも、最大の津波高さを記録していると。今後も、危険であり続けると。あとは、北茨城市の大津港や水戸市の大洗では、住宅地の前面に冷蔵倉庫などの施設が存在したため、住宅被害が抑えられたこと。平坦地では、「射流」と呼ばれる急な流れが、津波の高さに関わらず、大きな被害を出すと。
 田老の防潮堤では、新しい時代に作られた、外側の堤防が引きちぎられている。コンクリート同士を、土台やブロックごとに緊密に結合していなければ、津波の質量に耐えられない。そして、このような防潮堤は、南海トラフ地震による津波が予測される西日本の海岸に多数存在して、危険と。


 第1章は、19世紀半ばの安政年間に発生した、東海・南海・江戸・伊賀上野の各地震について。2年の間に大きな被害地震が三連発というのは、なかなかエグイな。住宅や寺院の倒壊情報から、震度を推定する手法がおもしろい。
 あとは、地震に伴う土砂災害に、液状化に。
 南海トラフ地震前には、内陸の地震が活発化しやすいと。今回の熊本地震なんかも、その一環っぽい。そして、安政伊賀上野地震では、丹波篠山でなぜか大きな被害が出ているとか。
 南関地震に関しては、大阪の津波被害が特筆されている。このときは、水路の小舟に避難した人が多かったことが被害を拡大したというのは、有名な話。水に近づいてはいけない。あと、古代までは潟湖であった東大阪市あたりは、地盤が弱いので、震度が高くなっていたし、次の南海トラフ地震でも当然、揺れが大きくなる危険性が高いと。


 第2章は、津波被害についての記事を集めたもの。
 1702年の元禄地震は、関東直下の海溝型地震で、同様の関東大震災より規模の大きいものであった。このときは、九十九里浜で大きな津波被害が出ている。東日本大震災の仙台平野のような状況が起きると。こういう場所では、逃げる場所がないため、人工的に盛り上げた場所が命綱になると。
 尾鷲市の賀田湾は十字型をした湾だが、ここでは、西に湾が突き出した賀田で津波の高さが高くなりやすくなっている。宝暦・安政・昭和と最高到達位置を記録している危険地域だと。
 安政南海地震で詳細な記録が残されている徳島県の宍喰の話。1983年の日本海中部地震では、腰の高さくらいの津波で、足をとられて溺死している人がいる。「射流」の危険性。小笠原諸島でも、近海津波の事例が、幕末期のアメリカ人の記録に残っている話とか。


 第3章は東日本を襲った地震ということで、関東から始まって、中部、北陸、東北の歴史地震を紹介。元禄地震における地盤と建物被害の関係。内陸最大級のM8.0の1891年濃尾地震
 大量に集まっていた参詣者が犠牲になった1847年の善光寺地震。このときは、川をせき止める天然ダムが大量に出現し、それが決壊して、巨大な被害をもたらした。
 1858年の飛越地震とそれにともなう立山の山体崩壊。現在も続く砂防事業。ここの土砂、運び出して、どっかの埋め立てに使ったほうがいいんじゃなかろうか。
 日本海側では、象潟地震、越後三条地震、庄内地震能登半島地震などが紹介される。能登半島に関しては、1729年に半島の先端側を主な被害地域とする地震が発生し、2007年には西の海上震源とする能登半島地震が発生している。両者の被害範囲が、全く重ならないというのも、印象的だな。


 第4章は、関西から西側の地震。関西地域については、古代からの記録が残っているので、比較的古い時代の地震が明らかにできると。
 1596年の慶長伏見桃山地震は、阪神大震災の被害地域をすっぽり覆って、更に広い被害範囲を持つ。1662年の北近畿地震では、断層の直上にある祇園社の鳥居が破壊されている一方で、市街の被害は比較的軽微だった。1872年に島根で起こった浜田地震では、石見銀山の五百羅漢の巌窟が破損している。あとは、6世紀に山口県の菊川断層で地震が発生している可能性とか。
 1791年の雲仙噴火に伴う、眉山の山体崩壊。それによって発生した津波が、島原半島と肥後の沿岸地域に壊滅的打撃を与えた「島原大変、肥後迷惑」が比較的多く紙幅が割かれている。干拓地は、どこもヤバイと。あと、金峰山の谷間は津波がかなり高く上がっているんだよな。


 以下、メモ:

――三陸海岸にある田老の防潮堤は10mの高さでしたが、それでも今回の大津波で被災しましたね。
 今回防潮堤を越えたということは、昭和の三陸津波より大きかったというわけです。だからといって、あの防潮堤が無意味だったわけではないのです。なにもなかったら、その時そこにいた住民の100%が死んでいるはずですから。津波は越えはしましたが、この防潮堤によって津波の勢いが殺されたわけです。900人の町民がいて36人しか生き残れなかった、という明治のようなことは避けられました。
 あの防潮堤はどの程度壊れたのか、有効性はどうだったのか。犠牲者はどのぐらい出たのか。詳しくは現地に言って調査してきたいと思います。p.19

 明治の時には、ほぼ全滅だったのか…

――日本には他の国と比べて歴史文書が非常に古くから残っているのはありがたいですね。
 ありがたいことなんですが、それがなくても平気な国がある。例えばロシアです。ロシア人がカムチャッカ半島に入ったのは1730年ぐらいです。1737年に、ペトロパブロフスク沖で大きな地震が発生し、カムチャッカ半島と北千島を大きな津波が襲っている。それから数えても250年ぐらいしか歴史がありません。
 ところがあの辺りは、冬は凍って永久凍土になる。見事に缶詰状態で津波の記録が地層の中に残っているのですね。しかもカムチャッカ半島は火山が多い。火山灰と津波の痕跡が繰り返される中、火山灰のほうはけっこう年代測定ができている。溶岩の流出でかれた樹木の年輪から分かる。そうするとロシアは、優に2000年ぐらいの津波記録を持っているのです。p.21-2

 へえ。永久凍土は津波の堆積物を綺麗に保存すると。永久凍土が溶ける前に、きっちり調べておかないといけないな。

 能登半島の延長部が半島の沖に舌状に突き出した地形があり、これが凸レンズのような役割を果たして津波エネルギーを半島先端部に引き込んだことが数値計算によって明らかにされている。p.154

 海底に突き出した地形があるところは、津波が集中しやすい。他では被害が小さくても、ここだけ大打撃を受ける可能性があると。

 実は、この断層系を構成する活断層の一つである善光寺断層は、現在の長野県庁の庁舎と、第二合同庁舎の両方のビルの真下を通っている。地震直後に書かれた記録によれば、断層によって生じた地面の段差は「床違いを生じ」と表現されている。p.209

 あかんやん。善光寺地震の再来があったら、長野県は災害対策のヘッドクォーターを失うわけだ。移転不可避。