野口実『列島を翔ける平安武士:九州・京都・東国』

 摂関時代から鎌倉時代初頭あたりまでの武士が、非常に広域なネットワークに乗って活動していたことを紹介している。
 国衙や近隣勢力に対抗して、自己の所領や権益を維持するためには、中央の権門との関係が必要であったこと。武人としての必要な装備を整えるために、京都の高度な手工業技術が不可欠であったこと。また、唐物や馬などを入手するために、奥州や九州との関係も持ちたかった。これらの権益を確保するために、武士は広域を動き回った。
 朝廷、院近臣や摂関家の武者として、京都で長く任務に就いたり。受領や大宰府府官として勤務して、現地に権益を確保しようとしたり。そのような武士の活動が、摂関期の藤原保昌、同じく摂関家から平氏政権期の鎮西平氏の活動。そして、鎌倉時代初期の御家人の西遷などが描かれる。
 熊本県のお隣、鹿児島県に関連する武士がメイン。


 一人目は藤原保昌。参議まで昇進する家系でありながら、武士と認識されていた。各地の受領を歴任し、関係者では紛争に武力行使を行い、追討を受けた人間も多い。一方で、藤原道長のお気に入りであり、サロンに出入りして、現在にも残る著名な歌人の夫になり、歌でも評価を受けていた。二面性が興味深い。


 中盤は、鎮西平氏の拡散。関東に本拠を持つ一族が、大宰府の官職を梃子に、肥前に勢力を扶植していく。刀伊の入寇で戦ったのも、平氏の一族が多かったと。さらに、日宋貿易の利を求めて、肥前から、海路で薩摩に進出。万之瀬河口が、貿易港となり、かなりの質量の遺物が発掘されている。あるいは、島津荘の拡大とか。摂関家と直結して勢力を拡大しつつ、南島特産の品物を摂関家に送っていた。ビンロウの葉を牛車の装飾に使うとか。
 このような交易の利を確保するべく、平家も進出してくる。


 最後は、鎌倉初期の御家人の進出。関東に地盤を持つ千葉氏が、京都や鎌倉を拠点としつつ、奥州や九州の交通の拠点に所領を獲得。都市領主として、流通に介入しようとしていた姿。
 あるいは、京侍であった惟宗氏が将軍との縁故によって、幕府に出仕。摂関家領だった島津荘を任され、九州支配の一翼を担い、没落した有力御家人の一族をスカウトして、被官にしていった。血縁などの縁故は、まさにセーフティネットだったわけだ。


 関東の有力豪族の拠点に、大規模な寺院と浄土庭園が検出されているというのも興味深い。


 以下、メモ:

 ところで、『中右記』寛治六年(一〇九二)九月十三日条には、当時、大陸のモンゴル草原に栄華を誇っていた契丹国に赴いて兵器を売却し、多くの宝貨を随身して帰朝した商人僧明範が左衛門府検非違使から勘問を受けたという記事がみえる。京都の武器商人が、海外への武器の輸出にも手を染めていたのである。寛治六年といえば『新猿楽記』が書かれてから三〇〜四〇年後にあたり、いよいよ七条町が金属加工の生産地として発展を遂げていた時代である。契丹に輸出された兵器も七条町で生産されたものであろう。p.157-8

 へえ。シベリア方面に出向いて武器取引なんかをやっていた商人がいるのか。日本海交易って、かなり大きかったのかな。興味深い。

 院。平家政権期の京都には、権門貴族や寺社に祗候するために列島各地から武士が集まり、彼らは傍輩(同僚)としての立場から広域的な人脈を結んでいった。私はこれを「一所傍輩のネットワーク」と呼んでいる。武士とはその職能を貫徹するために流通・生産に依存しなければならず、またその武力行使という(必要悪としての)職能の正当性は国家・首都の守護と引き替えに王権によって裏付けられなければならなかった。だから「在京活動」は彼らにとって「武士」としての存在証明を得るための必須の営為だったのである。保元・平治の乱を経て「武家の棟梁」が出現し、地方武士の利害が直接中央の政治の場に持ち込まれるようになると、いよいよ彼らの活動はその領域を広げ、京都を介した列島各地の交流が促進されることとなる。いわゆる源平争乱の時代は、そのような社会・文化状況を踏まえなければ理解することはできないのである。p.171

 全体のまとめ。