「凹道の「清正公道」発掘:防衛のために掘り下げ?:大津町」『熊日新聞』17/8/20

江戸時代初期に加藤清正が整備したとされる大津町大津の豊後街道で、幅約9メートル、深さ約3メートルの逆台形をした凹道の「清正公道」が見つかった。石畳でない清正公道は始めて。台車の車輪が通った跡や「柊木水道」の水路跡も発掘された。調査している県教委が19日開いた現地説明会で明らかにした。
 熊本地震で寸断された国道57号の北側復旧ルート建設に伴う調査。県文化課によると、豊後街道は熊本城から阿蘇・久住を通って大分市鶴崎までの124キロで、熊本藩主が参勤交代で使用した幹線道路。このうち大津宿から二重峠(阿蘇市)までが清正公道と呼ばれる。二重峠近くには石畳が現存している。
 東西に通る清正公道の断面から、加藤清正が地面を3メートル掘り下げて造ったことが判明。同課の調査員は「約9メートルの道幅は全国的にもきわめて広く大規模な街道だった。掘り下げた目的は、攻め込んできた敵を両側の高い位置から狙い攻撃できる防衛上の理由と考えられる」と説明した。
 清正公道は加藤清正をはじめ伊能忠敬吉田松陰勝海舟坂本龍馬らも通ったという。同課は「石畳ではない平たんな街道の構造が初めて判明した。地層断面から、江戸時代に清正公道がしっかりと維持管理されてきたことが分かる貴重な史料だ」と話している。
 今回の発掘現場は復旧ルート建設のため埋め戻される。来年2月に調査報告会を開く。     (横山千尋

 
 熊本地震によって寸断された国道57号線の、二重峠方面への付け替えに先立つ発掘調査で発見された豊後街道の遺構についての記事。加藤清正は、こういう地形的脆弱性も読んで、こちらにメインルートを設置したのだろうか。結局、近代国道も、こちら側を通ることになったなあ。
 地山から3メール掘り下げ、路面の幅が9メートルと、かなり大規模な道路遺構が出現。以前、豊後街道の平地部が場所によってはめちゃくちゃ広くて、何十メートルとかいう数値が残っているという話を聞いて、いや、間違いだろうと思っていたが、豊後街道、かなり贅沢な作りだったのだな。加藤清正にとっては、上方へ軍勢を率いて進出するメインルートだけに、かなり高規格に建設したということなのだろう。
 現在の大津町の中心部、大津宿のすぐ北側、阿蘇の外輪山の裾野に登るルートに、こういう道路横で待ち伏せできるような防衛ラインを形成するのは、ここから先がだいたい平坦なだけに、当然の配慮なのかな。
 堆積状況から、江戸時代には、流入土砂が排除されていたことが読み取れるようだ。近代に入り、メインルートが立野側に変わって、どの程度のスピードで、どの程度埋没したのだろうか。報告書の類は、まだ出ていないようだけど。