「京都の細川藩士に書状:三斎、忠利 築山家宛て3通:熊本市で発見:藩外にも家臣、全国初確認」『熊日新聞』17/10/18

 熊本地震で被災した家屋から古文書や絵図などを救出する「文化財レスキュー事業」で、熊本市の旧家から肥後細川家2代三斎(忠興)と3代忠利の書状が見つかった。寛永年間(1624~44年)、京都にいた細川家の家臣・築山家に宛てた3通。研究者は「中世以来の領地を維持し、藩の外にいながら家臣であり続けた存在を全国で初めて確認した。藩の実態を研究する上で、視野を広げる一例になる」と驚いている。


 レスキューに携わった熊本大永青文庫研究センターによると、書状は三斎の2通と忠利の1通。築山家7代当主・築山兵庫に対し、細川家と縁ある公家の世話をした働きへの感謝や、京都に入る将軍に付き添うため、休憩所の確保を依頼。京都における細川家の信頼獲得や動向を支えていたとみられる。
 築山家は、室町幕府で将軍足利家に仕えた地侍の中でも由緒ある「西岡御家人衆」の一人。書状と一緒に見つかった文書などによると、京都で生まれた肥後細川家初代藤孝の産湯は築山家が準備したとされ、細川家が肥後に移った後も家臣の一人として京都や大阪で知り得る全国の情報を流していたという。その後の動向は不明だが、明治時代には熊本にいたことが分かっている。
 同センターの稲葉継陽教授は「築山家のような存在について、従来の近世史研究は想定していなかった。西日本の大名である細川家にとって上方の政治経済の深い情報は貴重だったはず。永青文庫の古文書にも築山氏の名前は多くあり、今後新たな発見があるだろう」としている。
 書状が見つかった旧家は築山家の子孫が所有し、ほかにも多くの古文書や絵図などが見つかっている。三斎と忠利の書状は東京の永青文庫で、12月9日から公開される。   (飛松佐和子)



 文化財レスキューの具体的成果か。思いがけないものが出現する。
 京都近郊の土着武士が、細川家と「家臣関係」でありつつ、京都に常駐して政界情報や工作を行っていた。こういう、歴史がある変わりダネ武士の存在が京都のおもしろさだよなあ。
 築山家、いつ頃、肥後に移ったのだろうか。肥後への移転が、京都政界の重要性の低下を意味すると思うのだが。
 5月ごとに、この文書関係で講演会があったそうだが、アンテナが低くて気付かなかった。無念。