藤原良章『中世のみちと都市』

中世のみちと都市 (日本史リブレット)

中世のみちと都市 (日本史リブレット)

 中世の道路の姿を追った本。様々な交通ルートによって、都市的な場が叢生していたのが、中世である、と。関東は、鎌倉幕府のお膝元で、割と史料が残っているのが強みだな。全五章中、三章が橋に関連していて、そちら方面の比重が大きい。やはり、ランドマークとして、交通のアクセントとして、存在感が大きいのだろう。


 最初は、「おうげの橋」「勢田橋」「四条大橋」のような、大規模な橋。勢田橋は、国家によって維持され、軍事行動や国家儀礼など大勢の人間を渡すための橋であった。また、橋は一般的に宗教者によって架橋・維持され、きちんと供養されない橋ではアウトローや魑魅魍魎が徘徊するおどろおどろしい空間となったこと。また、街道や港湾といった交通関係の施設そのものが、宗教行為として整備維持されることが多かったことが紹介される。


 また、多くの橋脚を設置、それに桁を渡し、手すりも整備したような橋は、特別な橋であり、一般的な街道では、簡単な橋脚に、一枚板を渡した橋が、繁華な街道でもメインだったことが、一遍聖絵などから紹介される。複数の板を渡した橋は、特別な存在として、二枚橋といった形で地名に残る。第3章では、○枚橋という地名を手がかりに、川崎市内や厚木市内の旧道を追跡する。
 昨日紹介した五十畑弘『日本の橋』では取り上げられない、右のようなスタイルの橋が、中世の標準であった、と→岩手県住田町下有住 気仙川 一本橋の松日橋(まつびばし)-後編。 ( 自転車 ) - 水辺の土木遺産 - Yahoo!ブログ


 第4章は、鎌倉周辺の道路の話。頼朝の奥州遠征に関わる道の考証や街道のランドマークなど。鎌倉の「大手」が永福寺から北東に向かう谷筋の道路であったこと。他の遠征軍の行軍ルート。あるいは、権現堂・権現山・東光寺といった宗教的なランドマークが、中世古道の目印になりうるのではないかという。
 最後は、大きな街道沿いに展開した都市的な場とおぼしき遺跡の存在。荒井猫田遺跡や野路岡田遺跡、下古館遺跡といった、市や流通機能を担ったとおぼしき、街道沿いの遺跡の紹介。


 やっぱり、橋がおもしろい。