谷口克広『信長の親衛隊:戦国覇者の多彩な人材』

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

 信長の側近集団を紹介する本。ずいぶん昔に読んだ本を再読。読み物として充分おもしろいけど、列伝的なものに留まって、集団としての「馬廻」はいまいち見えてきていないように思う。


 改めて読み直すと、側近の小姓衆や馬廻から、意外に出世している人間が少ないのが印象的。信長と同世代からは、前田利家丹羽長秀池田恒興などが出ているが、その下の、天下人時代を支えた側近からは、堀秀政くらいしか大名になった人間が出ていない。これは、本能寺の変で、小姓や馬廻衆の主だった面々は戦死して、たまたま任務で他所に行っていた人間しか生き残らなかったからとも言えるが。
 巻末の人名リストをググると、むしろ美濃や近江の国衆クラスの方が、大名にはなりやすかったように見える。織田・豊臣・徳川と政権が変わっていく中で、改易された者でも、数千石クラスの上級武士として、どこかで復活している事例も多いのは、家臣や血縁ネットワーク、あるいは指揮官クラスを勤められる訓練を受けた人材の希少さ故だろうか。


 信長の側近集団にもいろいろあり、直轄軍団である馬廻、身の回りの世話をする小姓衆、文書の作成や取次業務などを行う右筆など、いろいろな仕事がある。武井夕庵や村井貞勝などの老臣がその代表的な存在。しかし、晩年には、信長が前線に出てくることがなくなって、小姓衆が、秘書的な役割を担うようになる。使者や戦場での目付、諸大名や公家との取次などは、小姓衆が前面に出てくる。また、彼ら側近は、主君の意を受けて行動するため、大身の部将に指図するような局面も出てくる。


 信長の覇業を支えた、直属軍団たる馬廻衆もに関しては、第1部の4章が当てられている。織田家の後継者の地位を確固たるものとした稲生の戦い、大大名となる端緒となった桶狭間の戦い、朝倉家を壊滅させた追撃戦などの攻勢局面、あるいは1570年の小谷退却や春日井堤での一向一揆との戦いなどの守勢局面。どちらでも、子飼いの精鋭部隊は、重要な切り札であった。
 この馬廻には、いろいろな人物が含まれ、兼松又四郎のような一騎駆けの武士から数百人を指揮する前田利家佐々成政のような人物まで。また、商人兼業武士やむしろ文官的な仕事で後世に知られる者など。一方で、軍律違反などで信長の不興を買って、追放されてしまう人間もいる、と。前田利家のような、いったん辞めさせられて、帰参を許され、さらに大名になりあがった人間は幸運な例外。戦場で手柄を立てようとして討死したり、他の大名家に流れていく人間の方が多かった。


 相撲会で目立った活躍を見せた人間が多数抱えられているが、やはり、武士身分と百姓身分では扱いに厳然たる違いがあった。百姓身分の相撲取りは、武家奉公人か同胞衆的な位置づけだったのかね。


 後半は、近習たちの活躍。第一世代の武井夕庵や松井友閑、村井貞勝、島田秀満といった面々。秘書的な、文書の作成、客人の接待取次、有力者との交渉、作事の運営といった文官的な仕事を行った。
 ここから、一世代飛んで、万見仙千代や森蘭丸といった面々が、京都進出辺りから目立つようになる。信長が戦場に出なくなるので、むしろ、文官的な役割が全面に。戦場で動けたのは、堀秀政程度だったし、大半が、本能寺で討死してしまう。長生きしたら、石田三成みたいな扱いになりそうな感じだけど。どうなったのだろうな。
 晩年の信長が、有力部将の所領を動かして、近江を直轄領化。そこに、側近を入れて、中核支配地域を形成しようとしてたらしいという話も興味深い。

 足半というのは、かかとの部分のない短いわらじで、戦後も全国各地の農村などで利用されていた。今、名古屋市の秀吉・清正記念館に所蔵されているものは、昭和四十三年に同館に寄贈されるまで、ずっと家宝として兼松家に伝えられたものであるという。果たしてこれが『信長公記』に載った足半か疑問を唱える向きもあるが、皆川完一氏の観察によれば、その古色や竹札の書風から信じてもよさそうである、ということである。p.88

 兼松又四郎が、朝倉攻めの時に信長から拝領したという足半の話。一部を切り取って、C14分析をしたら、どういう結果が出るのだろうか。