日本史史料研究会編『将軍・執権・連署:鎌倉幕府権力を考える』

将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える

将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える

 『鎌倉将軍・執権・連署列伝』の出版にともなって開催されたシンポジウムを書籍化したもの。権威の側面から、鎌倉幕府の上層部を追う。「源氏将軍」「摂家将軍親王将軍」「執権と連署」の三部に、8本の論考を収録。


鈴木由美「鎌倉期の『源氏の嫡流』」
 「源氏の嫡流」というのは、誰もが認める基準があるわけではない、と。源氏の末裔の多くが主張するもので、鎌倉将軍の頼朝の系譜や室町将軍の足利氏は、自己主張を、実力で裏付けた。


菊池紳一「源頼家・実朝兄弟と武蔵国
 武蔵・相模は、頼朝の重要な基盤で、それは頼朝と武蔵武士の主従的支配と知行国としての統治的支配の二元的な体制でなっていた。武蔵は重要な基盤で、息子の世代に、兄弟と共に、武蔵武士を藩屏として遺そうとした。しかし、それは、子供の代には引き継がれなかった。
 最大の問題は、頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れて、この家系の勢力が壊滅していたことにありそうな気がする。一族や郎党が残っていれば、ここまで、北条氏に容喙されることはなかったのではなかろうか。まあ、それなら、頼朝の出る芽もなかったかもしれないが。
 頼家は、比企氏を中心に有力武士を周りにおいて、武士の長として育て、一方、実朝は北条氏と公家の縁故を生かして公家にする構想であったのではないかという指摘が興味深い。


関口崇史「非源氏将軍の登場:摂家将軍から親王将軍へ」
 歴代の将軍に求められたもの。
 武勇に優れ、実力で御家人を従えることが求められた。実朝は、その点で不足があった。
 摂家将軍九条頼経は頼朝と近い血族であることから、擁立された。また、近習集団とは独自の紐帯を形成することに成功している。最初の頃は、幼年であったことから、幕府の政務に支障をきたし、北条政子が代行となっているなど。また、その息子頼嗣には、武芸と共に文化的素養も要求された。
 親王将軍に関しては、年齢に関わらず将軍儀礼を遂行可能なことが要求され、そのために、親王である必要があった。また、その親王であるゆえに、行動が制限され、御家人から覆い隠され、近習も職務的な付き合いが卓越し、主従的な絆を構築できなかった。


久保木圭一「鎌倉将軍に就いた皇子たち:京都目線から見た親王将軍」
 希薄な存在感。
 宗尊親王は高いステータスをもっていたが、久明親王はそうでなかった。しかし、持明院統復権によって、将軍位を得た。四人の将軍の母親のステータスは高かった。出家するか俗人でいるかはかなり早い年齢で決まり、親王将軍が幼いのはそのため。在位期間が長く、執権などとは平穏な付き合いであった。
 宗尊親王との血縁関係がある程度、久明親王の選抜に影響した。
 宗尊親王の子供惟康親王を、親王にするのは、前例がなく大変であった。しかし、彼の親王宣下は、宮家の萌芽になった。
 あるいは、和歌サークルや関東伺候廷臣、幕府要人の烏帽子親としての役割など。


小池勝也「仏門に入った鎌倉将軍の子弟たち」
 源氏、摂家親王それぞれで、かなりの子弟が仏門に入っている。
 源氏将軍子弟の僧は、頼朝の血を引くということで、反北条の諸勢力に推戴されがちで、非業の死を遂げている事例が多い。
 また、鎌倉将軍子弟は、家格から天台宗真言宗の顕密系の寺院に入門している。禅宗寺院は、この時期には、格的に、適していなかった。天台宗では、山門派・寺門派両方に入門しているが、寺門派側はこれといった事跡を残していないのに対し、山門派に入門した子弟は幕府関係の祈祷で名声を博し、天台座主になっている人物が多い。これは、幕府が宗教界に影響を及ぼす手段であったこと。また、彼らの拠点となった鎌倉勝長寿院は、それぞれの将軍家に一貫性を持たせるための場であったとも言う。


久保田和彦「鎌倉幕府連署制の成立と展開」
 最初の「連署」であった時房は、連署就任時、すなわち北条政子に「軍営御後見」を命じられたときには、一貫して地位や経験の長じ、複数執権制であったこと。その後も、時宗の時代までは、若年の執権を、政界の重鎮が補佐する体制であった。しかし、その後は、得宗家と差が開き、その事情によって左右されるようになる。
 前半、時房の行動を、「明月記」と「吾妻鏡」から追っているけど、なんでこの二つだけなのだろうか。この時期を扱っているのが、これらだけだったのだろうか。


森幸夫「六波羅探題と執権・連署
 探題勤務がかなりストレスフルだったこと。しかし、それをこなした人物は、だいたい、幕政の中核を担っていると。1230-76年までは京都に慣れた重時流が担った。1297年以降は、家格より実力主義になった。
 一方で、六波羅探題経験が政策立案に活きた事例は、意外と少ないとか。


下山忍「極楽寺流北条氏の執権・連署
 得宗家に次ぐ家格を占めた、重時流の北条氏について。得宗家の外戚でもあったこと、一貫して得宗家に忠実な家系だったことなど。
 しかし、北条氏って、鎌倉時代の後半になると、若死が多いような気がする。