藤田覚『勘定奉行の江戸時代』

 幕府の実務のほとんどを担う組織であった勘定所が、どのような課題に対応してきたかを描く。


 勘定奉行は、天領の支配裁判や幕府の財政の管理だけではなく、評定所寺社奉行、道中奉行などの実務スタッフも派遣して、町奉行の管轄である江戸市中以外のほとんどの地域の支配・裁判を管轄した。後には、裁判関係と財務関係で人員を分けている。
 また、幕府の役職は、大抵、家格によって就ける職が決まっていた。勘定奉行もその一つであり、番方から目付経由で勘定奉行に就任する事例が7割超を占める。しかし、一方で、内部昇格による叩き上げが勘定奉行に就任するコースもあり、御目見え以下の御家人が家格上昇を果たす貴重なルートとなっていた。
 このような、独自の存在感を持つ組織が、勘定所であった。


 徳川家は、初期には天領からの収入に加え、金銀山から産出する貴金属とそれを利用した貿易によって、豊かな財政を享受していた。しかし、16世紀も半ばになると、金銀の鉱脈が枯渇し始め、それにともなって、財政状況も悪化。以降、やりくりに苦労する時代が続くことになり、それにともなって、財政の組織も整備されていくことになる。
 17世紀末から18世紀初頭の20年間は、貨幣の品位を落とすことで、益金を捻出する貨幣改鋳の時代。その後、貨幣の品位を元に戻し、緊縮財政と課税範囲の拡大を行う時代が19世紀初頭までの100年ほど続く。その後、また、貨幣改鋳による益金に頼る時代になるが、それに頼りきりで、貨幣材料が払底。さらに、欧米の進出に伴う軍事支出の拡大や為替の混乱の中で、財政が破綻していく。


 徳川吉宗享保の改革田沼意次の時代どちらも、緊縮財政の基調は変わらなかったし、課税対象を増やすという目的も変わらなかった、と。吉宗時代の有毛検見法は、商品作物生産に対して課税対象を広げる目的があった。田沼時代には、その範囲を広げて、広い範囲から徴集しようと試みた。
 だいたい、できることは吉宗時代にやっているから、田沼時代には、冒険主義的な企画が横行した側面はあるのかな。
 そして、増税は、当然のことながら、民衆の抵抗を受けた。


 新田開発などの年貢のもととなる米生産の拡大も行われたが、これは、米の独歩安とも言うべき「米価安の諸色高」という状況を引き起こす。この状況は、結局、田沼時代を通しても、克服できなかったわけか。
 また、諸藩の財政悪化は、備蓄の裏付けのない米切手の発行「空米切手」問題を引き起こすが、田沼時代はこれに本格的な対応を迫られる。金融不安に対して、大坂の商人に「御用金」を課し、それを元手に、諸藩に低利で貸し付ける対応が企画された。しかし、様々な抵抗を受けて、中途半端なままに、中止されてしまった。


 19世紀にはいると、貨幣改鋳による利益に頼る財政政策に回帰する。貨幣に含まれる貴金属の量を減らしてみたり、高品位の貨幣も重量を減らして集めると上位の貨幣より貴金属の量が少なくなるなど、様々な術策を凝らして、貴金属の節約を図ることに。これによる益金で、幕府の支出がまかなわれることになる。そのためには、以前に発行されていた貨幣を回収する必要があるため、貨幣の交換にやってきた人間に割り増し金を与えるなど、素材の入手に躍起になる。
 このような貨幣改鋳の中で、贋金作りによって薩摩藩などが巨利を得る。また、欧米列強の進出に対しては、財政に負担がかからない措置を、常に採ろうとする。
 しかし、ペリー来航以降の開国に伴う金貨の流出、さらに、攘夷をめぐる政治・軍事闘争に伴う財政支出に耐えられず、財政破綻の道へ。貨幣の改鋳への依存度が高まり、それでは足りずに献金を要求したり、金札の発行を行うようになっていく。また、幕末には、財政的観点から政策を主張する勘定所系の役人と、国際的な政治を視野に入れた目付系の役人の対立が深まる。能吏と言われた川路聖謨のやったことも、引き伸ばし策にすぎなかった、と。とはいえ、先立つものがない中で、いくらかっこいいことぶち上げても、しょうがない側面もあるよなあ。
 献金頼りの軍事改革と言えば、熊本藩も似たようなものだったはずだが、どこで読んだんだっけ。


 以下、メモ:

 田に米以外の綿や菜種などを栽培するのには制限があり、それでも栽培するならば高率の年貢を賦課するというのが幕府のやり方であったが、田への綿栽培などを解禁する代わりに、重い年貢を賦課することにした(本城正徳『近世幕府農政史の研究』大阪大学出版会、二〇一二年)。そのうえで、それまでの田畑の等級や石盛をご破算にして、現実の収穫量(実際には、生産物である綿や菜種などを販売して生産者が懐にする金額)に応じて年貢を賦課する方式、つまり有毛検見法を施行することにしたのである。これは、幕府に多大な年貢増収をもたらし、これ以後、各地の幕府領で採用され、幕府領年貢率のピークを迎える結果になった。おそらくそれは、神尾春央の最大の功績だった。延享元年に五〇〇石、さらに八年後の宝暦二年(一七五二)に五〇〇石加増されたのは、将軍吉宗ついで家重が、神尾春央の功績に報いた処置である。p.92

 商品作物の産額に応じて、課税する方式に変わったと。商品に対する課税は、吉宗の時代から積極的に行なわれていたと。しかし、それは、民衆にとっては大きな増税となり、ダメージが大きかった。強圧的な導入が行われたという。

 天明三年(一七八三)に出した七か年倹約令では、とうとう拝借金を全面停止してしまった。幕府は倹約を理由に、幕府と藩の関係、つまり幕藩体制の安定にとって金融面での重要な仕組みを一時的とはいえ放棄してしまった。「出る金は一銭でも減らす」という政策の一部だった。しかし、幕府と藩のあいだに内在する矛盾の緩和剤でもある拝借金の停止は、幕藩関係に微妙な影をなげかけることになる。p.113

 目先のやりくりが、長期的には自分の首を絞めることになったわけだ。