和田裕弘『織田信長の家臣団:派閥と人間関係』

 なんか、気分的に信長づいてきたので、再読。
 しかし、こうして、信長の家臣団を見渡すと、尾張には、最近の戦国大名でミニ戦国大名的な存在として定義される「国衆」の存在感が限りなく薄いなあ。知多半島の水野氏くらい? 清須・岩倉・犬山の各織田氏尾張今川氏あたりが、そういう存在にあたるのだろうけど、信長の尾張平定の過程で滅ぼされてしまった。
 それどころか、一族としてそれなりの継続性を持つ家臣も少ないよなあ。信長の主要な家臣と言われる柴田勝家羽柴秀吉明智光秀滝川一益丹羽長秀と父親以前の事跡が明確でない重臣が多い。そもそも、信長の弾正忠家自体が、祖父あたりからしか明確にならない家だし。例外は、佐久間・森・坂井氏くらいか。信長につけられた家老たる林・平手も、なんか、一族としてのパワーはあんまりないようだし。林氏は、稲生原の戦いで700人と、信長自身に匹敵する程度の戦力を動員して、敗れているから、このときのダメージが大きかったのだろうか。
 信長に収斂させるのではなく、16世紀半ばあたりの尾張の政治地図や在地支配の構造あたりに焦点を当ててみたいところ。そもそも、定住や産業構造がどうなっていて、それがどのように支配され、領域的な権力に繋がっていたのか。


 尾張以外では、早い段階から領域支配の中核となった美濃・近江の国衆は、織田・豊臣と取り立てられて、近世に大名として名を残している感じだな。関ヶ原あたりで西軍についても、縁故やらなにやらで、改めて旗本や大名の上級家臣として、復活している感じ。それに比べると、大和や摂津、河内、和泉、伊勢の国衆は、限りなく陰が薄いというか。室町幕府の奉公衆も、細川家に仕えた家系以外は、光秀の敗北で連座して壊滅しているし。関ヶ原大坂の陣で豊臣方について、壊滅している感じか…
 ほかにも、調べてみると群馬県域の国衆は、北条氏に組み込まれて、没落していたり、どこにいたかでずいぶん運命に差があるのだな。