- 作者: 熊本日日新聞社
- 出版社/メーカー: 熊本日日新聞社
- 発売日: 2013/12/03
- メディア: 単行本
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いろいろと、意外な事実が多い。
肥後半国の大名に抜擢されるまで、賤ヶ岳の合戦以外で、前線で戦った形跡がほとんどない。むしろ、後方で財務や補給・統治関係の仕事をしていた。むしろ、財務官僚的なポジションにあった人物であった。
あるいは、朝鮮侵攻の策源地として、行長・清正は、大きなプレッシャーに晒された。それが、天草五人衆の一揆に際しての、対応の違いになって現れた。
第2部は、朝鮮出兵をめぐる文書の紹介。日本国内で戦場から遠く隔たっていた秀吉と、前線の諸将の感覚の差。さらに、通信のタイムラグが。これらが、遠征軍を翻弄した。書状からしても、秀吉には現地の状況が見えていないのが、よくわかる。
肥後の施政に関して、細々と方針を支持しているのが、ワンマン社長とも例えられる、清正らしい。しかし、文禄6(1596)年5月14日書状の、「5年間はささいなことでも、自分(清正)が戻るまで命令を発してはいけない」って命令は無茶だなあ。留守を預かる家老たちは、頭を抱えたんじゃなかろうか。
あと、島津との戦争、肥後国衆一揆、朝鮮出兵への動員で疲弊していた肥後の状況。「百姓成り立ち」に気を使う姿は、もう少し後の世代を彷彿とさせる。
一方で、各地の支城主は独立性が強く、領内統治に直接介入が難しかった状況。近世大名としては時代遅れで、家臣団統治に問題を抱えていた。これが、幼い後継者であった忠広の時代の内紛の伏線になったと。そもそも、清正が死んだ時点で、忠広が幼かったのも、朝鮮出兵が影響していそう。朝鮮から帰国して出来た子だし、出兵中は子作りどころではなかったのだろう。加藤家の行く末への朝鮮出兵の影響は、いろいろな面に及んでいる。
清正が茶や連歌をたしなみ、家臣団の統制などに利用していた状況。連歌師桜井素丹の「素丹句集」は、加藤家の動向を知る情報が豊富に含まれている、と。
文禄5年閏7月15日の書状も興味深い。原田喜右衛門尉という商人を代理人として、フィリピンに麦を輸出していた状況。また、同様に麦を売却して、南蛮船から銃弾となる鉛を購入していた。九州の大名は、たいがい、海外貿易に従事していた姿が見える。近世になっても、天草あたりに密貿易の中国船がやってきていたようだし。
清正軍は北青で全軍合流を果たすが、家臣たちは飢えと寒さで凍傷などを患っており、この悲惨な事態を目の当たりにした清正は胸を痛めただろう。1万人いた清正の軍勢は逃亡も相次ぎ、漢城に撤退した時点では約5千500人にまで減っていたという。p.69
かなり大規模に脱走兵が出ていたのだな。こうやって逃げ出した兵士が、明の軍閥や朝鮮軍に雇われて、鉄砲部隊を編成したと。かき集めたら、けっこうな人数になりそう。