河内将芳『宿所の変遷からみる信長と京都』

宿所の変遷からみる 信長と京都

宿所の変遷からみる 信長と京都

 同時代の公家の日記などから、京都における信長の宿所・行動を復元。京都と信長の関係をあぶり出した本。こうしてみると、信長にとって、終始アウェイだったんだな。1568年の上洛から、1582年の本能寺の変に至る期間のほとんど、信長は京都に屋敷を持たなかった。1577年から3年弱の二条殿御屋敷を使用した以外は、基本的にはお寺に寄宿。周囲に堀や塀のある日蓮宗の寺院を愛用した。メインは妙覚寺で、本能寺を利用するようになったのは、二条殿御屋敷を親王に進上した後、天正9-10年の間だけ。
 公家衆が、山科や大津あたりまで出迎えに来たり、宿所に「礼」に来たり、頻繁に信長に会おうとするのがおもしろい。この時期の公家は、有力者の庇護を切実に必要としていたと言うことでもあるのだろうけど。あと、晩年の信長は、公卿の仲間入りしているから、お付き合いがしやすかったのかな。一方で、信長は、たいそうな迎えはいらないと会わなかったり、進物を返却していたりする。公家とのお付き合いは、気が重いものだったようだ。著者は、公家の酒宴が嫌だったのではなんてことも言っているが。


 結局、京都に「城」を構えず、年始の礼を受けるのも岐阜城安土城と、一貫して京都と心理的距離があった。それでも、将軍に奉公する「武家御用」や朝廷のための「禁裏守護」の活動は怠りない。ある意味、形而上学的に捉えている感じはあるなあ。それだけに、ズブズブの生身感のある京都の政界があまり肌に合わなかったとか。


 寄宿される側が、非常に迷惑だったという話も興味深い。信長が滞在中の寺院は、僧侶が追い出されるなど、面倒なだけだった。で、その場所が気に入られると、土地を取り上げられて、別の場所に移転を強いられるなど、有力者の寄宿は、悪いことしかなかった。
 また、軍勢が駐留した場合、兵員は町家に寄宿することになり、これまた非常に迷惑だった。
 あと、信長の軍勢が持ち込んだ銅銭が質の低いものであったため、必要物資の取引が混乱し、米を貨幣代わりとして取引が行われた。しかし、それは食料としての米の需要を圧迫したとか。そうでなくても、食糧需要は増しただろうから、庶民には苦労が多かっただろうなあ。


 本能寺の変当時の、信長の「油断」。そもそも、防備の薄いお寺に少人数で滞在。護衛の兵も分散。さらに、明智勢として突入した武士の記録だと、門も開いていて、門番一人とか。完全に無防備状態で、あっという間に敷地内への突入を許している。本当に無防備だったのだな。その油断した数日を、明智光秀に突かれた。クーデタを起こす千載一遇のチャンスだよなあ。
 公家の日記類には、信長の最期は簡単にしか記されていなくて、誠仁親王の屋敷にこもった信忠の最期の記録が厚いという。いろいろと、政治的立場に気をつけなくてはいけなかったのかねえ。あるいは、死んだ信長は価値なしという意識か。


 以下、メモ:

 もっとも、当の信長は、このような公家たちからの「礼」をうけることにかならずしも積極的であったとはいえないようである。たとえば、「公家奉公衆」が来たさいには、「取り乱れ」ているので「見参」(対面)しないといったり(『言継卿記』三月三日条)、また、「一条殿」(一条内基)が「礼」におとずれたさいにも、「頭痛気」「平臥」しているので「明日」にしてほしいと伝えたりしているからである(『言継卿記』三月四日条)。
 同じような傾向は晩年においてもみることができるので、信長は、どちらかといえば公家社会にはなじめないタイプの人間だったのかもしれない。p.44

 公家社会になじめない信長。普通に体調が悪かったのかもしれないが…

 なお、若干、時代のさがった記事ではあるものの、相国寺鹿苑院主の日記『鹿苑日録』文禄元年(一五九二)九月十四日条には、「信長公寄宿のとき」、「当主」(鹿苑院主)は「鹿苑寺」(いわゆる金閣寺)に「住」したとの記憶が残されている。
 これが事実を伝えているとするなら、信長が寄宿したさいには、鹿苑院主ら相国寺の僧侶たちは一時的にも退去を余儀なくされていたのであろう。先にもふれたように、天正三年七月以降、信長は相国寺へ寄宿することはなくなり、それによって、相国寺の僧侶たちは安堵の胸をなでおろしたのではないかと思われるが、しかしながら、今度は妙覚寺の僧侶たちが迷惑をこうむることになった。p.76-7

 信長の寄宿中、寺から追い出される僧侶たち。G20サミットの警備が長く続くようなものか。

 というのも、御所内の「大庭にならび居た」「諸士」のうち、「顔色変じて萎れたるは、みな家に功ある歴々」であったのに対し、「意気揚々たるはみな新参」であり、そして、「顔色変じらるものは討ち死」し、「意気揚々たるものどもは、みな狭間をくぐりて逃れ」たと『老人雑話』は伝えているからである。
 ことの真相はさだかとはいえないが、『兼見卿記』(別本)同日条に二条御所で「村井親子三人、諸馬廻ら数輩、討ち死に数知れず」とみえることからすれば、「家に功ある歴々」にとっては、信長が死に、そして信忠が死なんとする刹那にあって、おめおめと生きつづけるというような選択肢は残されていなかったのであろう。p.143-4

 武士の面目。新参者は、脱出しても良かったのか。関係の深い者ほど、一緒に死ななくてはならない。