矢田俊文『近世の巨大地震』

近世の巨大地震 (歴史文化ライブラリー)

近世の巨大地震 (歴史文化ライブラリー)

 前著の『中世の巨大地震』が、南海トラフ地震の発生状況を検証したのに対し、行政資料を含め、情報が豊富になる近世では、内陸のM7級被害地震にも視野を広げて、検討する。
 行政資料が大量にあるから、特に何も考えず、報告書をつなぎ合わせれば良いかと言えば、そうでもない。そこが、歴史学者の出る幕。安政江戸地震で、それが顕著だが、被害報告書の数字を丸写しすると、思いも寄らぬ被害の過大評価が起きてしまう。その史料の文言がなにを意味するかを考えて比較する数値を抽出しなければならない。それを怠ると、幸手領が、もう一つの被害の中心となってしまう。
 江戸時代の行政文書の利用に関しては、「半潰」が具体的にどういう状況なのかが分からず、利用に問題があるという指摘も興味深い。現在の被災調査でも、全壊・大規模半壊・半壊には、いろいろとブレがあるわけで。
 あとは、全国ネットワークで、情報をやり取りしていた俳人の史料を、情報源として利用できる可能性。そして、災害前後に、被災地を旅していた人々の旅日記や飛脚問屋の刊行情報を使った被害範囲の特定といった方法も興味深い。
 近世史料は、まだまだ、いろいろな情報を絞り出せる、と。


 全体的な構成は、時代ごとに、主要な地震を解説していくスタイル。

  1. 16世紀末~17世紀前半 天正地震、伏見慶長地震、慶長陸奥地震寛永熊本地震、寛文近江・若狭地震
  2. 17世紀末~18世紀前半 延宝房総沖地震、天和地震、元禄関東地震、宝永地震、宝永七年会津南山地震、宝永七年伯耆地震、宝永八年伯耆・美作地震、正徳四年信濃小谷地震、越後高田地震
  3. 19世紀前半 佐渡小木地震、出羽象潟地震、越後三条地震、出羽庄内沖地震
  4. 19世紀後半 弘化善光寺地震嘉永東海地震安政江戸地震



 こうしてみると、新潟県と長野県の地震が目立つ感。フォッサマグナは伊達じゃないというべきか。あとは、近代に入ってからも定期的に地震を起こしている山陰地方、近世もきっちり地震を起こしている。200年くらいのペースで起きているのかな。30年ごとに大地震が起きる宮城県沖ほどではないが、起きやすいところは決まっているのかね。


 第一のセクションは、豊臣政権の時代から、徳川政権の初頭あたり。この時代だと、地震の関する情報源は、公家や寺院の日記が主で、関西・中部地方以外の地域の被害は判然としない。慶長陸奥地震や慶長会津地震に関しては、具体的な被害の記述は少ない。これは、関西・中部地方を被災地とした天正地震や文禄5年の伏見地震も、具体的な被害の広がりは、考古学や地学的な研究が重要となっている。美濃、尾張、近江を中心に発生し、帰雲城の内嶋氏全滅で有名な天正地震若狭湾津波堆積物研究の成果や、近江長浜、美濃大垣両城の発掘成果が、被害の様相を明らかにしつつある。
 伏見地震では、須磨寺の被害や阿波撫養の土地隆起による塩田の出現など、地殻変動の範囲の確定を行っている。地殻変動で土地利用が大きく変化するというと、象潟の新田あたりが印象的だが、隆起で陸化した土地を塩田に利用というのも興味深いな。
 熊本地震を受けて、1625年に熊本で発生した地震については、比較的詳しく記述されている。というか、加藤家の地震関係の文書って、少ないのだな。細川家は地震後に入国しているんだよなあ。細川氏が本丸御殿を使わなくなったのは地震のせいってのは、確定かな。熊本地震以前には謎だったんだけど、なんで、地震前にそういう情報が出てこなかったかなあ。考古学的成果では、低地の古町遺跡と熊本城内飯田丸両方で、17世紀中葉に断絶があって、地震被害の影響が考えられる。
 あとは、地震ナマズを結びつける考え方の出現時期の考察など。


 第二セクションは、17世紀末から18世紀前半にかけて。ここらあたりの時代から、幕府に提出された被害報告書が、何らかの形で残る。他の藩や情報収集が趣味の人物の日記などの被害報告が転載され、被害の姿が明らかになる。
 あと、時期が長いだけに、地震の数が多い。
 1677年の延宝房総沖地震では、1村あたりの死者数を算出し、そこから千葉県の勝浦市からいすみ市にかけての地域、福島県いわき市近辺の津波被害が大きかったことを指摘する。
 1683年に栃木県北部で発生し、巨大な天然ダム五十里湖を形成した地震についても、紹介される。50年近く存在した天然ダムってのも、すごいな。あと、会津藩が、福島県西部から、栃木県北部、尾瀬と日光を結ぶ線の北の広大な山岳地域を、徳川家の蔵入り地として代理支配していたという話も興味深い。
 1703年に相模トラフで発生した元禄関東地震は、九十九里浜から伊豆に至る広域で被害を出している。下鴨社の神官梨木祐之が地震直後に小田原から平塚にかけてを旅した「祐之地震道記」や小田原藩の報告書、柳沢吉保が集めた「楽只堂年録」掲載の九十九里浜津波被害などから、被害状況を明らかにする。最初の旅日記からは、建物被害の濃淡を明らかにできる。また、後二者からは、熱海から伊東にかけての伊豆半島津波被害や九十九里浜で一番海岸側の砂丘に展開した集落で津波被害を出している状況が明らかにされる。九十九里浜地理院地図で見ると、現在も納屋地名が残っているのだな。で、こういう地域が元禄関東地震津波被害を受けた。
 で、100から150年のスパンで襲来する南海トラフ地震、宝永地震。大坂では、河川への津波遡上で、川に小舟で避難した人々が多数に犠牲になったこと。建物被害による多数の死者。そして、浜名湖近辺では地盤の沈降が発生したことなどが、幕府への報告書から明らかになる。
 その後は各地の地震会津藩が預かる南山蔵入地では、1710年に再び、地震発生。ここいらの日光の北、会津盆地の南の山地は、地震が多いのか、単純に会津藩の行政がしっかりしていたのか。同年には、山陰の伯耆・美作でも地震が発生。さらに、1714年には、2014年に地震被害を受けた白馬村堀之内地区で地震が発生している。近世に地震が起きた地域は要注意地域と考えてよさそう。
 このセクション最後は、1751年の越後高田地震。現在の上越市近辺で起きた地震上越地域は、1666年、1751年、1847年と地震被害を受けている、頻発地域。近世には、100年ごとに起きてるのに、近代に入ってからは沈黙って、それはそれで怖い…
 震源から離れた土地の被害状況、高田城下町の被災、そして、高田城下町の西の山地の土砂災害による犠牲者の多さ。ここいらあたり、なんか記憶に引っかかるなと思ったら、「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」の比較的早い時期に取り上げられていた。土砂災害と津波は、今も昔も死者を出しやすい。
isabou.net
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 19世紀前半は、1802佐渡小木地震、1804年象潟地震1828年後三条地震1833年出羽庄内沖地震の4つが取り上げられる。
 佐渡小木地震は、佐渡島の南端あたりで発生した地震。小木湊に特異的に被害が集中し、また、湊の隆起が発生している。報告書類や「井関隆子日記」の蔵田茂樹の回想などが紹介される。
 象潟地震では、俳人ネットワークとそれによって作成された象潟地震絵図の紹介が厚い。名勝として有名だった土地だけに、俳人にとっても関心が深かったのかな。由利本荘市から酒田市までの、鳥海山周辺で被害が大きい。
 このセクションでは、越後三条地震の記述が大きい。倒壊率の検証からは、見附市東部の平野と丘陵の境目あたりが怪しいと。あとは、居宅の損壊状況や死傷者の状況を上申させた「文政度地震変事御糺答書」という史料が興味深い。長岡市中之島周辺の人々が、地震が起きたときになにをしていて、地震で家がどのように壊れて、家族にどのような被害が出たのかを事細かく記す。朝食後、仕事を始めようとした時間。屋内の「庭」という場所で脱穀作業を行っていたり、三条町の市に商品を持ち込んだ時間帯。慌てて逃げ出した状況。その中で、建物が全壊し、逃げ遅れた人が梁や柱の下敷きになって死んでいる。あるいは、梁の上に置いていた種籾や船に押しつぶされた人。一方で、半潰家では、構造部材の崩壊はなくて、死者も少ない。
 出羽庄内地震では、新潟市域の、津波の遡上状況を検証している。


 最後は、19世紀後半。1847年の善光寺地震1854年嘉永東海地震1855年安政江戸地震。こうしてみると、1850年前後、大物地震が集中しているなあ。
 最初は、善光寺地震地震による火災で、善光寺参りにやって来ていた参拝客が多数焼死する、都市型地震の走りみたいなの。ここでは、現在千曲市森の名主中条唯七郎が書いた「徒然日記 附 地震大変録」や直前に善光寺を通過した江戸の商人の旅日記「虎勢道中記」など、周囲にいた人々が、自身が体験した災害の全体像を構築するために、どのように情報を集めたかが描かれる。これ、私も似たような行動取ってるなあ。また、後者は、地震の揺れの範囲を知るのにも役立つ、と。
 続いては、嘉永東海地震。ここでは、直後に東海道を旅した宮負定雄の「地震道中記」から、東海道筋の宿の被害状況を拾っている。三河あたりより、関西の被害が大きい感じなのが興味深い。あとは、飛脚問屋の情報発信。運んでいた荷物の被害をどう負担するかといった問題もあり、各種の情報に敏感にならざるを得なかった飛脚問屋の姿や刷り物で顧客に情報を発信していたニュース配信の嚆矢みたいな状況など。
 最後は、安政江戸地震。町方の一軒あたりの死者数を算出すると、やはり、地盤の弱い低地の下町に被害が集中する。逆に、山の手側の町方では、被害が少ない。あとは、最初でも言及した、史料の扱い方の問題。幸手領の被害を集計した「大地震ニ付潰家其他取調書上帳」を利用する際の問題点。幸手領は江戸と並ぶ被害の中心とされているが、何が書かれているか検証すると、幸手領の全壊建物はごく少ない事が明らかになる。また、「半潰」がどういう状況を意味するのかを検証しないと、単純に全潰の半分として扱うのは棄権と指摘。また、川崎領では、安政三年の台風被害との混同の問題もある、と。


 以下、メモ:

 以上のように、低地の古町遺跡と高台上の熊本城で同時に変化が起きていることの時期の一致から、十七世紀前葉と中葉の間に遺跡の断絶が見られることは寛永期の大規模地震に起因する一連の現象ととらえることができよう(齋藤友里恵「一六二五年寛永熊本地震に関する考古学的痕跡抽出の試み」『二〇一六年前近代歴史地震史料研究会講演要旨集』、二〇一六年)。p.35

 1625年の地震で、熊本城と城下町はかなりの損害を受けたらしい。

 平塚宿は被害が大きく、大磯宿の被害はそれほどでもなかったため、大磯宿に梨木祐之一行は泊まったのだが、平塚と大磯の被害の違いは、一九二三年の大正関東地震関東大震災)でも同じであった。大正関東地震は元禄関東地震と同じく相模トラフの周辺で起きた地震で、元禄関東地震とほぼ同じ地域に被害があった。大磯と平塚の被害の違いについて、『神奈川県震災誌』(神奈川県、一九二七年)は、大磯町の地盤は岩石なので市街地の潰家は少ない。これに反して平塚町は激高を極めた、と記している。相対的に地盤がよい大磯宿は平塚宿と比較して被害が少なかったのである。p.55

 過去の地震被害を検証することは、今後の災害の時に、被害予想になるということか。平塚、地盤やばい。

 丸山興野の与右衛門の家族は炉端に集まっていた。下関新田の間脇の与六の家族は、与六と倅与五郎・二男門四郎は庭で稲こなしをしていた。間脇とは百姓の階層の一つである。③の本家、34の名子も同様に百姓の階層の一つである。稲こなしをしていた「庭」は、母屋の内にあったものと思われる。与六の家は大地震になり、逃げ出す間もなく、家は揺れ潰れ家族全員、潰家の下になったのであるから、主屋の外に庭があったわけではない。新潟県中越地方の民家調査においてもニワは主屋の内にあることが知られている。庭とは主屋内にある土間の作業場所のことをいう。p.144

 熊本あたりだと屋外でも困らないけど、豪雪地帯の新潟だと、作業場も屋根の下にないといけないのかね。

 自らが体験し恐怖を感じた地震の全貌を知りたいという願望のため、地震について記されている出版物を購入し、それを日記に写し記録しておいたというのである。この唯七郎がとった行動は、『虎勢道中記』の筆者のものと同じではないか。p.184

 現在でも、災害の後にそれ関連の出版物が出るのは、同様の心の働きなんだろうなあ。自分の体験を整理して、大枠に位置づけたい欲望。

 飛脚問屋は様々な情報を記した摺物(木版印刷物)を顧客に配布していた(藤村潤一郎「翻刻飛脚関係摺物史料(一)」『資料館研究紀要』一六号、一九八四年)。地震情報についても飛脚問屋は顧客に摺物として配った。定飛脚嶋屋は東海地震等の被害情報を摺物によって知らせていた。摺物「東海道筋並上方筋大津浪大地震之事」(木下直之吉見俊哉『ニュースの誕生 かわら版と新聞錦絵の情報世界』東京大学総合研究博物館、一九九九年)などもその例である。p.208

 へえ。もう、新聞だなそれ。


 文献メモ:
青木美智男校注『善光寺地震を生き抜く:現代語訳「弘化四年・善光寺地震大変録」』日本経済評論社、2011
北原糸子「近世の日記に見る旅と災害:十九世紀庶民の旅日記『虎勢道中記』を中心に」『年報人類文化研究のための非文字資料の体系化』四号、2007