近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』

騎兵と歩兵の中世史 (歴史文化ライブラリー)

騎兵と歩兵の中世史 (歴史文化ライブラリー)

 再読。前著たる『弓矢と刀剣』を読んでから、間を置かずに読むつもりが、思いのほか時間がかかってしまった。8年前に読んでいるが、今読んだらどういう感想になるかなということで、一緒に借りだしたはずなのだが。


 もともと、武士は弓がメインウェポンだったのだが、それが南北朝時代に馬上打物に変化する。その革命的変化を追う。
 源平合戦時代の武士の戦いから、弓による応酬があり、その後に近接戦に移行していく姿を明らかにし、弓射騎兵の淵源が古代、律令制以前に遡ることを明らかにする。6世紀の古墳から出土する馬具・武具のセットからは、すでにこの段階で弓射騎兵であったことをしさする。その後も、日本書紀には騎射の事例は多く、律令官人はそもそも、武具や馬を整え、騎射の技能を保持することが求められていた。さらに、五衛府の舎人も弓射騎兵としての技能を持つものが求められていた。そもそも、歩兵部隊のイメージが強い律令軍団も、指揮官クラスを中心にかなりの騎兵が含まれていた可能性が高いという。
 続日本紀では、天皇行幸や対蝦夷戦争に、各地の騎兵が動員されていた姿。また、恵美押勝の乱のさいには、駅鈴や玉璽の争奪の際に、騎射、特に馳射が行われていることが印象に残る。
 これらの前提を元に、中世武士の騎射が存在する。ここいら、桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』につながる話だな。


 平安時代後期以降に台頭した武士たちも、これら騎射をメインとした。しかし、源平合戦の時代に至ると、依然として騎射がメインであるとは言え、乱戦の中で、落馬から白兵戦・組討戦と続く戦いも目立つようになる。
 騎射というと、蒙古襲来絵詞にあるような馳射をイメージするけど、平家物語では、むしろ静止しての射撃がメインになるというのが興味深い。確かに、馬の体力を考えると、走りながらの弓射戦は限られるか。


 これが、鎌倉時代末期、南北朝の戦乱に入ると、様相が変わってくる。
 騎兵は各種の近接戦用武器で戦う打物騎兵へと変化し、弓は歩兵が射るものへと変わっていく。同時に、諸兵科の集中・分担が常態化していく。このような変化の要因を、著者は、戦争目的の変化、敵の殲滅から拠点の争奪へと変化したこと。そして、悪党など、戦争に参加する社会階層の拡大に求める。同時に、歴史群像の具足の連載にあるように、三枚弓など合成弓の普及とそれにともない具足が矢を射るときに邪魔になるようになった、兵器側の変化も大きそう。
 馬上打物戦への移行にともなって、近接戦用の武器も多様化。太刀は巨大化する一方、打刀、金属や樫の棒、鉞、鑓が使われるようになる。騎馬による一撃離脱戦闘がメインになった結果、素振りが難しそうな大太刀でもかまわない、と。また、それに応じて、臑当や籠手、面具などが具足に加わるようになり、鎧の隙間が減る。
 騎射は激減した一方で、弓は歩射がメインに移っていく。反撃を受けにくい場面では、具足を外して射たほうが、射やすい。また、これらの射手は、専門の集団として数百人単位で個別運用されるようになる。


 結果として、武士の象徴が、鎌倉時代までの「弓矢」から、近世には「刀」と変化していくことになる。
 また、室町後期、戦国時代に入ると、騎馬戦闘そのものが、減退し、全般的に徒歩戦闘へと移行していくことになる。

禁兵器
では、「ほこ」は、このように集団歩兵制に最適の武具でありながら、なぜ兵士自備の武具のなかにないのか。まして『義解』の解釈のように、槍が木柄の両端を削っただけの簡易なものであるならば、弓箭や太刀よりもはるかに自備しやすくなろう。しかし、自備でなければ官備(官給)でしかなく、『集解』でも、衣服令武官朝服条に対して、槍は挂甲などとともに、「官備」という解釈を示している。
 そこで注目されるのが、軍防令私家鼓鉦条の「凡そ私家には、鼓鉦・弩・牟・サク・具装・大角・小角及び軍幡有ること得じ」という規定である。このうち鼓鉦・大小の角(角笛)・軍幡などは軍団の指揮具である。また、『義解』によれば、牟は「二丈の矛」、サクは「丈二尺の矛」とあるように、ともに長寸の「ほこ」で、具装は「馬甲」とある。これらは賊盗律禁兵条に「禁兵器」とあり、盗んだ者に対する「徒一年半」(禁固一年半、弩・具装は「徒二年」)の罰則が定められ、また、擅興律の逸文(『法曹至要抄』所収)によれば、私有した者に対する「徒一年」の罰則も定められていた。p.62-3

 歩兵部隊を運用する指揮具や長柄武器類、弩は、国家独占というのが興味深い。