日本史史料研究会編『信長研究の最前線:ここまでわかった「改革者」の実像』

信長研究の最前線 (歴史新書y 49)

信長研究の最前線 (歴史新書y 49)

 うーん。2014年刊行の本だけど、その後、ここで取り上げられている話が常識化したというか、他の本でだいたい似た話に接するようになったので、あまりインパクトは感じないかな。
 足利義昭が独立した政治主体として活動していた、ないし活動しようとしていた。また、公儀として押し立てていた足利義昭を追放したため、上位の権威として朝廷を重視し、相互依存関係にあったというのは、もう、完全に通説だよな。しかし、朝廷が存在して、室町将軍がいて、細川京兆家や三好家がブイブイいわせていた戦国期の関西って、どういう風に社会秩序を維持していたのだろうなあ。カオスにしか思えないが…
 個人的には、家臣団関係がおもしろかった。信長は、関西以西の外様大名・国衆間の対立を解消できなかった。筒井順慶と対抗関係にあった松永久秀、長宗我部氏と阿波国衆勢力。最終的に、四国問題は信長の命取りの一因になった、と。
 あとは、中国方面司令官たる秀吉のフリーハンドの大きさとか。


 織田、徳川の同盟関係を整理した平野明夫「織田・徳川同盟は強固だったのか」は、同盟関係の変化を紹介する。今川義元戦死直後に結ばれたのは領土確定と相互の停戦だった。徳川は、後背を安全にして、対今川戦争を開始。その後も、独立大名として活動。上洛戦や姉川の戦いでは、将軍義昭に従う同格の立場で行動している。しかし、その後、天正2-3に同盟関係が変化。家康は、信長配下の「国衆」という立場へ移り変わっていく。書札礼でも、だんだんへりくだるようになり、天正9年の書状では、直接出さない披露状に変化。また、長篠の戦いでは、「家康が『国衆』であるので先陣した」と明確に従属関係に位置づけられている。
 どういう経緯でこういう変化が起きたのだろうなあ。武田の攻勢に耐えられなくなったということなのだろうか。


 秀吉の存在も興味深い。小川雄「信長は、秀吉をどのように重用したのか」と一章割かれているが、他にも、天野忠幸「信長を見限った者たちは、なにを考えていたのか」でも、大きな影を落としている感がある。
 早い段階から、信長の馬廻りとして配下に加わっていた。で、美濃・近江の攻略にも、活躍。初期からの家臣とは、家族ぐるみの付き合いだったのか。信長の息子於次秀勝の存在も大きかったようす。実際、末期の信長家中で、信忠に次ぐ待遇を受けているように見えるし、準一門みたいな位置づけだったのかな。
 で、その秀吉が播磨に進出し、中国地方計略を任されると、信長直臣であったはずの別所長治や小寺政職を自分の臣下扱いにした上で、家臣である別所重宗や黒田官兵衛を奪い取ろうとした。また、荒木村重に関しても、荒木村重が築いた取次関係を、姫路に入った秀吉に踏みにじられた。これが、足利義昭の調略に彼らが応じた理由である、と。


 第二部後半、天野忠幸「信長を見限った者たちは、なにを考えていたのか」、柴裕之「明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか」、中脇聖「信長は、なぜ四国政策を変更したのか」の三編も連動している感じ。
 信長を「見限った」者たちの最大かつ致命的な存在が、明智光秀だった。
 敵対者の優遇によって見限った松永久秀長宗我部元親、取次関係や家中の支配関係を切り崩されて見限ったのが明智光秀荒木村重、別所長治。荒木村重に関しては、そもそも、支配下の百姓が軍役や対本願寺戦争の負担に耐えかねたという側面も強い。
 荒木村重の叛旗に関しては、百姓たちが積極的に荒木・別所勢の支援を行っているというところに、信長の支配に対する在地の反発がうかがわれるな。あと、荒木村重有岡城から尼崎城への「逃亡」に関する議論も興味深い。尼崎には、直轄部隊600騎ほどを率いて入城している。これは、毛利氏や雑賀衆からの援軍や補給の拠点である尼崎城が維持できなければ、有岡城を維持できない。宇喜多離反で戦力を本国に引き抜いた毛利軍に代わり、自らで戦線を維持する動きであった、と。そうなると、離反した別所・荒木の主体的な戦争のあり方というのも見えてくるな。
 で、最大の見限りが、明智光秀だった。全体として、信長としっくりいかなくなっていた状況が見られるが、その中で、長宗我部氏との取次を外され、四国方面から外されてしまうことが、家格を低下させ、織田家中での明智氏の発言権を低下させ、政治生命に悪影響を及ぼす質のものであった、と。ここいらの、「四国問題」が実際にどの程度の重要度であったかは、私にはよく分からないけど…
 四国に関しては、信長と元親だけではなく、瀬戸内海沿岸全体に目配りする必要があるという指摘も。


 第三部は、経済的、文化的な政策についての話。
 流通、特に楽市楽座に関しては、長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』を読んだ方が、まとまっている感があるな。宗教に関しては、厳しく当たったように見える法華宗に関して、実は微妙に優しかったんじゃないかというはなし。
 最後の文化的貢献に関しては、そもそも、当時の文化全般の見取り図がないと分からないな。とりあえず、信長は文芸とは、あんまり縁が無い印象。踊りや相撲などの芸能、そして茶の湯にご執心であったのはたしかだろうけど。


 以下、メモ:

 信長が家臣に求めたのは、絶対的服従と絶え間のない領国拡大戦争への従事であった。そのため家臣は、信長の命令次第で他国へ移封させられ、検地をおこない、国掟を定め、従来の地域社会を破壊しつつ、軍勢を動員する体制をつくりあげねばならなかった。
 こうした信長の家臣の下で、役を負担させられた百姓が不満を持つのは当然であろう。尾張以来の信長の家臣は、縁もゆかりもない占領地で信長の方針を実行したが、摂津の出身で摂津を支配した村重にとってはできなことであった。p.153

 このあたりの、「地域社会の破壊」がどの程度だったか、よく分からないところがあるなあ。北陸や関西あたりは、思いっきり破壊されたんだろうけど。

 久秀・長治・村重は、与力の国人や家臣、百姓に対する支配を信長に脅かされるなかで、自らの将来が見えたからこそ、信長を見限らざるを得なかった。
 こうした苦悩はいわゆる外様の者だけであったのか。武田勝頼を滅ぼした滝川一益は信長より上野と信濃二郡を与えられたが、痛恨に思う(『信長公記』)、地獄へ落ちた(『畑柳平氏文書』)と悲嘆にくれている。上杉景勝毛利輝元の滅亡後は、柴田勝家羽柴秀吉も同様の思いをしたであろう。
 しかし、久秀・長治・村重が外様ゆえに独自の家臣団を持っていたのと異なり、一益・勝家・秀吉は最初から信長の影響下で家臣団を形成し、信長より付けられた与力によって成り立っていたため、信長を見限ることはできなかったであろう。尾張出身者には佐久間信盛のような末路しかなかったのではないだろうか。p.154

 新占領地をあてがわれるというのは、馬廻り出身武士でも、こういう感想をもらすほど厳しいのか。
 たしかに、一益や秀吉は、一から作っているだけに厳しかっただろうな。その点で、美濃出身者や室町幕府関係者で構成された光秀家臣団は特異だったわけだ。

 あくまで私見であるが、本章において紹介した「折檻状」や「越前国掟」で確認したように、信長が上にいて権力を握っており、一見すると強固に見える信長の家臣団統制は、じつはこれとは裏腹に、家臣団を厳しく統制しなければ謀反が起きてしまうという、脆弱性のあらわれではないかと考えてしまう。今後さらに研究が進展すれば、将来的に「折檻状」や「越前国掟」に対する捉え方も、現在とはまったく異なったものとなっているかもしれない。p.203