菊地浩之『豊臣家臣団の系図』

豊臣家臣団の系図 (角川新書)

豊臣家臣団の系図 (角川新書)

 前著の信長家臣団に続き、秀吉の家臣団の系譜を追った本。
 本能寺の変以前に秀吉に仕えていた、譜代的な立場の家臣たちを、北政所の実家の親族衆、1520年代生まれの小六世代、1540年代生まれの二兵衛世代、1550年代後半から1560年代生まれの七本槍世代、秀次家臣団、豊臣家政を司った五奉行、秀頼家臣団に分けて、それぞれの系譜と閨閥を紹介する。
 秀吉家臣団は、出身地は尾張、美濃、近江で偏りがないが、信長や家康の家臣と比べると、圧倒的に若い。1550年代から1560年代生まれの七本槍世代が中心になる。近江長浜を任されたあたりで小姓に召し出した者と、秀吉家臣の二世たち。
 彼らが、子供に恵まれていないのが印象的。子沢山の武将はむしろ例外で、跡継ぎに苦労するのが基本なのか。特に、朝鮮侵攻に動員された武将たちは、長期間海外に出ずっぱりで、それがかなりの不利な要素になった様子。
 年長の小六世代は、だいたい岩倉織田家の家臣で、相互に姻戚関係を結んでいるというのも興味深い。また、二兵衛世代の竹中・黒田あたりは、独自の動員力を評価された感じかねえ。


 それぞれのカテゴリーで、一家くらいが国持ち大名で明治まで生き延びている。親族衆では浅野家、小六世代では蜂須賀家、二兵衛世代では黒田家、秀次家臣団では山内家など。七本槍世代は、加藤清正家、地味加藤こと加藤嘉明家、福島家と国持ち大名クラスの家が、本人か、その子世代で問題を起こして改易されている。七本槍中では、一番地味な脇坂安治の家系が6万石で一番成功している。同世代では、藤堂高虎の家系が、家康の信頼を得て、津藩32万石を維持。
 秀次家臣で東海道筋に配置されていた家老衆は、失脚に連座せず、関ヶ原の合戦では家康について、かなりの厚遇を受けているけど、田中吉政の家系が柳川藩32万石、中村一氏の家系米子藩17万石、堀尾可晴の家系が松江に24万石と国持ち大名級だが、結局、無嗣断絶。けっこう、無嗣断絶多い。


 意外と、関ヶ原の合戦で西軍に付いた連中でも、意外と大名級まで復活したり、数千石級の大身旗本として復帰している家が多いのだな。そして、そうやって近世に生き残った連中は、系図を名家とつなげて、家系を潤色している、と。おおよそ2世紀後の編纂である『寛政重修諸家譜』では、特に先祖が怪しい、と。
 信長や家康の家臣団の系譜でもそうだが、意外と、戦国時代末期の人々は系譜を重視していなかったのかなあ。祖父くらいで、情報があやふやなところが多い。まあでも、現在でも父親の従兄弟とか、よく知らないしなあ、そう言えば。そんなものなのかね。


 実子に恵まれない秀吉が、養子を使って閨閥形成を行った。あるいは、秀吉の父方の影が限りなく薄いこと。結果、北政所の実家である杉原家や養親の浅野家、あるいは、小出家などが親族扱いで重用される。福島正則も、一族扱いだった様子。一方で、従兄弟であるはずの加藤清正は、それほど親族扱いされていないっぽいのが。
 秀次家臣団と家康の関係も興味深い。片桐且元や小出家、石川家など、徳川家側と姻戚関係にあった家が、徳川家の取次を務めた。徳川家との関係は、家中での発言力を強化することにもつながったのだろう。しかし、両家が決裂すると、徳川寄り勢力として、追放される。結果として、これらの家は、大坂の陣で滅びることなく生き延びることになる。
 前著、『信長家臣団の系図』で、信長の本来の譜代家臣である津島衆が、ほとんど大名になっていないの不審に思っていたのだけど、秀頼の馬廻りである七手衆の指揮官には、津島出身らしい人間がかなり含まれている。こうして、秀頼周辺に誘引されて、大坂の陣で武士として生き残れなかったということなのだろう。
 あとは、あちこちの家に分散して使えている青木家が印象的。というか、近世頭の武士家系では、こっちの方が普通なのかもしれないな。福田正秀『加藤清正と忠廣:肥後加藤家改易の研究』でも、加藤忠廣に改易後もついていった家臣の親族が、西国を中心に各地で召し抱えられているのが印象的だったが。これなら、主家が改易されても、親族ネットワークで再就職活動ができる。


 ラストの五大老閨閥も興味深い。毛利、宇喜多、前田が、自己の家内を固めるために、家臣たちと婚姻関係を結ぶ閉鎖的な閨閥を形成している。逆に言えば、毛利や前田が近世を、大きなお家騒動を起こさずに生き延びることができたのは、こういう中を固めることを怠らなかったからなのだろう。
 上杉家は、そもそも血縁者が少ない。その中では、戦国時代の武田・北条・今川との関係が目立つ感じか。
 で、子沢山で、かつ異母兄弟の子たちをも有効に使って、有力外様大名との閨閥構築を行っている。子供が多いって、財産だったんだな。