平野明夫編『家康研究の最前線:ここまでわかった「東照神君」の実像』

家康研究の最前線 (歴史新書y)

家康研究の最前線 (歴史新書y)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2016/11/02
  • メディア: 新書
 最前線シリーズの一冊。とりあえず、図書館から借りてきた分は、これで終わり。今回のテーマは家康。
 徳川家の場合、最終的に天下をとって、長期間にわたって徳川幕府を維持していたこと。それに応じた歴史記述の蓄積や由緒を誇張する行為が、「実像」を明らかにするのを難しくしている、と。


 全体は四部構成。第一部「戦国大名への道」、第二部「戦国大名 徳川家康」、第三部「豊臣大名 徳川家康」、第四部「天下人 徳川家康」で、15編の論考が収録される。複数著者のため、それぞれ主張が相違するところもあるが。特に、今川からの自立の時期について、即座に独立に動いたとする平野論文と遠藤論文の翌年永禄四年までは従属関係を維持していたのではないかという指摘などが、特に。もっとも、前者にしても、本格的に動き出したのは、同じ史料の日付としているが。


 第一部は、戦国大名徳川氏の前史。ここが一番おもしろいかな。
 村岡幹生「松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」は、中世の松平氏の姿を、松平郷で17世紀に編纂された「松平氏由緒が来」という史料を元に描き出す。その史料がどこまで信用できるか、私自身は追求する力を持たないが。熊本で、東海地方の地域史を調べるにはコストがかかる。土木技術を備えた富豪「有徳人」だったという出自を持つという。また、1443年には日野家の所領大浦庄・菅浦の代官として活動して、騒乱に関わった松平益親、1465年に三河額田郡で発生した牢人一揆の鎮圧を命じられた松平信光といった同時代史料に名前が見られる松平氏の人物も紹介する。とはいえ、これらの人物が本当に、徳川家康と系譜がつながるか、証明する確実な史料は存在しない感じだなあ。
 安藤弥「『三河一向一揆』は、家康にとって何であったのか」は、三河一向一揆について、研究史や経過を紹介。以前から「寺内」特権を持ち、地域に影響力のあった真宗寺院と自らを中心に地域秩序を再編しようとする徳川権力との対立抗争。そして、真宗三河復帰は、秀吉との対立状況という中で戦略的に行われた。
 堀江登志実「家康の家臣団は、どのように形成されたのか」は、家臣団の編成。譜代家臣に今川・武田、北条旧臣を附属させたり、武川衆・津金衆・御岳衆といった地下人を組織した集団は、そのまま軍団として徳川家臣団に編入。また、徳川四天王と呼ばれる連中には、譜代家臣の与力が「附人」としてつけられた。彼らは、譜代家臣としての意識を保ったまま、井伊・本多・榊原の軍団に編成。家中の上層は、これらの附人を出自とする家で占められた。また、17世紀半ばあたりになると、これら附人は、改めて家臣化していくが、一部は、幕府から直接領地を給与されたり、独自にお目見えしたりと、譜代的なポジションを維持した。


 第二部は、今川からの自立から豊臣秀吉との和睦までの期間の動き。信長に従属が強まる以前は、織田・武田。上杉などを向こうにまわしての独自外交を展開した。また、惣無事が信長時代の関東方面との外交で形成されたこと。北条対反北条の対立の構図が、小牧長久手の戦いでは、徳川・北条同盟と秀吉・佐竹他という構図で、より広い範囲で展開した。秀吉の後方攪乱によって、北条氏の援軍が実現しなかったなど、大きく影響している。


 第三部は、豊臣政権下での徳川氏の動向。
 検地に関しては、遅れているという評価もあったが、基本的には豊臣大名としてのスタンダードに適するものであった。あとは、関東移封時のドタバタ。とりあえず、先に家臣に領地を配分して、その後、検地を行って確定していったこと。足りなくて、抗議していたり、いろいろあったようだ。貫高で表示されているが、石高への換算が容易に行われるようになっており、これは秀吉の「御前帳」徴収や軍役に対応したものであった。
 また、家康は、東北方面の政治的安定の維持に重要な役割を果たしていた。大崎・葛西一揆やその後の蒲生氏郷伊達政宗の対立の事後処理。東国安定の要として、重要な役割を果たしていた。


 最後は、天下人としての家康。
 イギリス人が、家康や秀忠の地位をどのように認識していたかという論考。あるいは、伊豆泉頭に隠居所を建設して、政界を完全に引退しようと計画していたこと。それに伴う後継体制の整備に見る、政権継承構想。駿府の家康付き家臣が、完全に隠居してしまうと自らの政治的地位がなくなってしまうと嫌がったという話が興味深い。
 あとは、死後の神格化の話など。