香月洋一郎『馬耕教師の旅:「耕す」ことの近代』

馬耕教師の旅

馬耕教師の旅

 熊本博物館の「『旅の巨人』と呼ばれた民俗学者宮本常一:熊本で見つけたモノ」を見て、気になって借りた本。著者は、宮本常一の弟子筋の人。
 近代に入り、生産力増強を求められた日本農業。その手段として、盛んに喧伝されたのが近代短床犂による牛馬耕とそれに適した乾田化であった。福岡や熊本県で普及していた牛馬耕の、東北北陸方面への普及の尖兵をになった馬耕教師たちの聞き書きのまとめ。50年ほど前までは、馬耕教師の経験がある人がいきのこっていたが、もう、そういう人もいない、と。
 馬耕というと、昔のことっぽく感じるが、全国的に普及したのは20世紀に入ってから。20世紀前半の物事なんだな。19世紀中の篤農家的な普及活動から、20世紀に入って会社組織による市場獲得競争へと変わるコントラストが興味深い。
 福岡県や熊本県から、馬耕教師が派遣されているが、ここいらが「先進地」となったのは、近世に大阪に米を移出するモノカルチャー的な経済構造ができたからなんだろうな。藩財政維持のために、米の移出が最優先で整備された。一方で、19世紀あたりまで続いた、国を挙げての集約的な方向への農業技術の開発が、その後の日本農業の桎梏になってしまっている側面も感じる。もっと、粗放な方向、あるいは労働・資本双方を節約する農業技術が、今となっては求められているように思う。


 第一章は、近代農業史を、犂耕の普及状況を中心に整理。畜力による犂耕には、耕地整理による耕地の整形と湿田から地下水を排水する乾田化が前提として必要であった。単純に、農具を導入するだけではなく、インフラ整備も必要な大がかりなモノであった。それだけに、県知事などによって主導された。
 あとは、牛馬の調教や使役技術の重要性。
 各地に、長床犂や無床犂など在来犂が存在したが、近代短床犂は、その後特定企業によって生産・供給されるようになった。福岡県の磯野・深見・長、熊本県の大津・東洋社、三重県の高北、長野県の松山などの製造者が企業化して、主要な供給者となった。このあたり、『農魂』という本が出ているな。


 第二章は、受容側である佐渡の人からの聞き取り。地域のリーダーになるような人が、馬耕教師の指導を受け、その後、福岡県などで泊まり込みの研修を受けて、技術をマスターする。その後は、そういう伝習を受けた人が馬耕教師として、地域の人々に教授していく。馬耕教師は、かなりの高給であったこと。はったりかまして、教える先の人々を納得させないといけないとか。
 そして、馬耕教師や犂製造に関わった人が、20世紀半ばに耕運機と遭遇して、転身していく。


 第三章は、馬耕教師側の聞き書き。本書の核心的部分かな。熊本の犂製造業者である東洋社など、熊本関係の記述が比較的多い。福岡の勧農社とならぶ、犂耕の震源地であった。大手犂製造業者の競争、そして、大学教授に各種実験を依頼したり、農業試験場のお墨付きを得ようとしたり、見た目は民具なのだが、その実、かなり近代的な企業活動であったことがわかる。
 この東洋社に関わった馬耕教師の聞き書き。農閑期に、各地を回って、犂の実習を行い、契約を取り付ける。売れた分だけ報酬が支払われる歩合制の営業職だった。交通費だけを出して、あとは自腹ってのがすごいなあ。地元の名人と勝負して、その名人を弟子にしたりとか、ほとんど武術の試合みたいな感じが。あとは、優秀な馬耕教師の引き抜き合戦とか。
 地域性も興味深い。土壌条件に応じて、各地に適した犂があり、製造業者はそれを入手して研究していた。あるいは、普及の違い。家畜に労働させることを忌避する地域もあったなど。
 各地で開かれた「競犂会」で、盛んに競われ、そこでは実用とは違う競技専用の技法が発展したとか。競犂会への地域の熱狂。近代化のシンボルとしての犂耕。あるいは、競犂会が、小作争議のデモの隠れ蓑になったり。犂の存在の大きさも印象深い。


 第四章は、犂からちょっと離れた、農業における「近代」についてのノートみたいなもの。「在野」の活力と「制度」化の葛藤が生み出すパワー。犂耕普及の地域性を統計から検証するのも興味深い。あるいは、納屋の中に仕舞われた道具から、手工業的近代の抽出。江戸時代には鉄材の供給の限界やたたら製鉄の品質のばらつきから、地域に合わせたカスタマイズが鍛冶屋の技術的にも、農家の懐事情からも難しかった。それが加工しやすい洋鉄が素材として導入されることによって、地域独自の農具が生産されるようになっていく。手仕事の技にも、きっちりと近代は反映されているのだな。


 ラスト2割ほどは、馬耕の解説書などの資料。時間が無いので、ここいらはパス。
 各章の間に挟まれる写真や図版がおもしろい。

 鍬・鎌・鉈などをはじめとする鉄製農具の形は、使い手の農民と造り手の鍛冶屋との「合作」の上にできたものだと言われる。これは使い手の要望を造り手が形として叩き出し、それを使った者がさらに改良を求め、造り手がまたそれに応える、そうした営為が何百年と繰り返されてきたうえに成った造形であるということを示しているが、こうした農具における地域差は江戸時代半ば以降には確立していた旨のこともしばしば指摘されてきた。
 この二者――農民と鍛冶屋――の「合作」作業はその後も続き、幕末から明治初頭にかけての在来鉄をつかっての、農具や刃物に集約される鍛造技術のレベルは、地域によってはほとんど限界近くまで達していたのではないかと思う。民間社会総体に蓄積された鍛造技術を通しての鉄に関する知恵の体系、こまやかさはきわめて高かったはずである。それは洋鉄が輸入され、普及をみると、すぐにその新材料を鍛冶職人たちが使いこなしていったいきさつからみても、そう言えるように思う。和鉄を存分に使いこなしていたからこそ、すぐに、そしてみごとに洋鉄に対応していった、と。
 それだけに、農具の地域差が形となって明確に現れていった和鉄時代は、和鉄を使っている限り、限界もあった。その限界の壁の手前には、この二者のさらに強い潜在的欲求が存在していたように思う。
 この潜在的欲求は地域によって違いがあった。従来の技術のままでほぼ充足している所もあったが、さらに使いやすい形の鍬があれば、さらにこまやかにつくりわけられた鍬があれば、あるいはさらに多くの数の鍬が得られれば、と心のどこかで希求する地域の人々もいた。そして鍛冶職人たちも、もっと均質な鉄材を、もっと多くの鉄材を、もっと入手しやすい鉄材がありさえすれば、という潜在的欲求をかかえていたはずである。自身の稼ぎへの意志、生活向上への意識がそこにあるかぎり。
 現在の都市生活の道具感覚からすれば、消耗品と貴重品とは、多くの場合対立概念になる。かつての民具の多くは、この二つの概念をひとつのものの中に強く併せもっていた。それがもっとも切実な形で併存していた民具のひとつが農具である。今はそうした文脈のうえで類推している。だとすれば、こう考えていくのが自然ではないか、との立場で。
 廉価で素材の種類も多様で、また均質性の高い洋鉄の普及は、この潜在的欲求の枷を取り除いた。潜み、蓄積されていた使い手と造り手の声が、鉄製農具の種類と形態と数量を通して、明治中期以降、一気に地域差として浮上してくることになる。洋鉄の普及というひとつの「普遍」が、逆に水面下に隠れる形で存在していた地域の意志を明確にし、そして増幅もしていった。洋鉄の普及以前の人々の希求は、洋鉄の普及によってあらわれていくことになる。
 「普遍」の広まりによって、逆に地域の差がきわだつ形であらわれていくこと、それが日本列島における「納屋の近代」であろう。振り返ったときに見えてくるひとつ昔の農家の納屋の姿がこれであり、現在、私たちが民俗資料館で目にすることができる鉄製農具の多くは、この時代のものになろう。しかしそのうちあるものは、材質は洋鉄ではあるが、藩政期の形状をそのまま受け継いでもいる。鉄の素材性が変わっただけのことである。これは文化が継承されているときのごくありふれたパターンのひとつではあろう。(p.190-192)

 明治二十(一八八七)年代以降の洋鉄普及の状況を考えると、おそらく明治期後半から大正期前半の時期の野鍛冶職人は、己の意志を存分に形に表せたという意味では、日本の歴史の上でもっともその技術を発揮できた技術集団のひとつではなかっただろうか。私がこれまで見てあるいた一〇〇館近くの民俗資料館の鉄製農具は、その八割ほどは、洋鉄で作られていた。今から振り返って見るかぎり、洋鉄普及の影響力が、まず目にとびこんでくる。それは「鍛冶職人の時代」の勢いでもある。p.192

 近代工業による素材の普及が、むしろ手工業を活性化し、地域性を露わにしていったというのがおもしろいなあ。あとは、和鉄を使った鍛冶が、かなり技術的難易度が高かった。均質で大量に供給される鉄素材は、鍛冶職人にとっても、農民にとっても福音であった。
 前近代においては、貴重な消耗品というのが、かなりあった。なんか、重機みたいな感覚なのかねえ。


 文献メモ:
農業発達史調査会編『日本農業発達史:明治以降における』中央公論社、1954
『農魂:熊本の農具』熊本日日新聞社、1977
田上泰隆編『耕転の歴史:日の本号・すき・犂』非売品、2005