角田徳幸『たたら製鉄の歴史』

たたら製鉄の歴史 (歴史文化ライブラリー)

たたら製鉄の歴史 (歴史文化ライブラリー)

 あと、4冊。
 図書館の本の殲滅も、やっと底が見えてきたかな。本書で県立図書館からの本は終わり。


 タイトルの通り、たたら製鉄を、東アジアや日本史の文脈も含めて、位置づける本。中世末から近世に存在した生産方式で、通歴史的に存在するものではないのだな。「もののけ姫」のようなフィクション作品のイメージは、実際には存在しなかった、と。
 近代に入っても、近代製鉄に価格的に圧倒されつつも、木炭製鉄は燐や硫黄の含有量が少ないので、軍用特殊鋼の原料として生き延び、その技術を受け継ぐ製造法は戦後まで生き延びていたというのがすごい。


 「たたら製鉄への道」、「たたら製鉄の技術と信仰」、「海のたたら、山のたたら」、「たたら製鉄と近代」の四部構成。


 第一部の「たたら製鉄への道」は、古代から中世、たたら製鉄がどのように形成されていったかを追う。
 古墳時代の6世紀に、朝鮮半島から移入された製鉄技術は、鉄鉱石から製鉄を行うものであった。吉備地域では、律令国家の需要を担う生産地だったが、8世紀に入ると良質な鉱石が枯渇し、低品位鉱石や砂鉄を原料とした製鉄がメインになっていく。たたら製鉄は、良質な鉱石に恵まれない日本ならではということか。分割された旧吉備領域、備前・備中・備後・美作では、調や庸の形で鉄製品が貢納された。一方、後の製鉄地域である出雲では、鉄の生産は行われたが、国家への納入は行われず、民間の需要に対応した。
 中世になると、特産地が明確化してくる。山陰地域と陸奥が二大産地で、中近世を通じて生産が行われた。他に、九州北部、播磨などの産地は15世紀、北陸・中部が13世紀、関東が11世紀に生産を行わなくなっているというのが興味深い。どういう理由で、産地の収斂が起こったのか。熊本でも、菊池川流域で製鉄遺跡が発見されているが。こうなると、陸奥の鉄生産の特性というのも気になってくるな。
 前近代の製鉄炉は、底にたまった炉底塊を取り出すために、操業ごとに壊されるので、全容を知るのが難しい。あるいは、フイゴによる送風能力の限界が、炉の大きさを決定していた。防湿のための地下構造、鉄を脱炭・精錬する鍛冶炉の併設、中世を通して工夫され、その到達点が近世のたたら製鉄である、と。


 続いては、近世のたたら製鉄の典型的な姿を紹介する。
 炉が設置される高殿とたたら炉の地下構造床釣りの整備、天秤鞴の導入、銑や鉧といった生産物を精錬・脱炭し、錬鉄に仕上げる大鍛治場の成立などが主要要素で、これらが出そろって「たたら製鉄」が確立するのは、17世紀に入ってから。
 製鉄には原料が必要であり、花崗岩質の山を切り崩して砂鉄を得る鉄穴流しや海・川で直接砂鉄を採取し、比重を利用して精選する作業が行われた。また、同様に大量の木炭を消費するため、むしろ、こちらの方がボトルネックとなりがちで、生産量の増加がはかられた。
 300キロほどの銑鉄が、まず「下げ場」で脱炭され、その後、この下げ鉄を10個に分割。それぞれを、3回、二分割し、地金の庖丁鉄が8本鍛造される。これが、基本的には流通した。
 あとは、たたら場に祀られたか金屋子神の信仰の広がり。こうしてみると、比較的最近の神様なのだな。


 第三部は、立地で多様性があったという話。
 外部から船で、原料となる砂鉄や木炭を搬入し、同じ場所で長期間運営を続ける「海のたたら」。特に、石見銀山領のたたら場は、銑鉄生産を中心に運営され、その銑鉄は高い評価を得ていた。
 逆に、内陸の山地で、地元の砂鉄と木炭を利用して運営される「山のたたら」は、物流コストが高いため、鋼や庖丁鉄といった単価が高い産品を目指して、「鉧押」が行われた。山のたたらは、輸送コストが高くつく、木炭の供給がボトルネックになりやすく、地元の木材資源を使いつくしての移転を余儀なくされた。
 18世紀以降は、たたら経営者が松江藩の軍馬の飼養を引き受け、輸送状況が改善したため、同じ場所で長期間の経営が行われる「基幹炉」が出現した。
 たたら経営者には、同時に海のたたらと山のたたらを経営するなど、さまざまなバリエーションが出現した。


 第四部は、幕末から近代にかけての状況。
 基本的に軍需が駆動源だったのだな。幕末、大砲の原料として、石見銀山領の銑鉄が大量に購入されたが、粘りがなく、大砲には不向きだった。また、鉄需要の増大から、長門筑前、肥後などに、石見銀山領のたたら技術者が招かれ、拡散した。八代で、たたらが経営されたというのが興味深い。産鉄はどこに出荷されたのだろうか。
 近代に入ると、高炉製鉄の海外鉄に、完全に価格競争せ圧倒されてしまう。しかし、呉工廠で軍艦の砲身や装甲のための特殊鋼の原料として、燐や硫黄の含有量が少ない木炭利用のたたら鉄は重宝され、これによって命脈を保った。日露戦争第一次世界大戦のような戦時には、需要と価格が上がって、活況になった。しかし、海軍がスウェーデンの低燐銑鉄に切り替え、さらに、第一次世界大戦後の恐慌と軍縮条約で止めを刺され、伝統的なたたらは消滅する。
 一方で、たたら製鉄の近代化も試みられ、水車送風によるたたら炉の大型化や、上部に煙突を設置し熱効率を向上させた角炉などが試みられた。これらによって近代化した砂鉄原料の木炭製鉄は、燐や硫黄といった有害成分が少なく、また、成分にチタンやバナジウムモリブデンなどを含むことから靱性が高く、金属圧延ロールや高級工作機械部品の鋳物用途として戦後まで生き延びた。
 また、伝統的なたたらも、軍刀製造用の玉鋼を供給するために、昭和に入ると「靖国鈩」として復興され、さらに複数の鈩が復興された。これらは、以前とは違い、鋼の生産量が増えるように運営された。戦後も美術刀剣用途で、日刀保たたらが運営され、技術が継承されている。断絶期間は、1920年あたりから1933年と十年強。ギリギリ間に合ったという感じなのかねえ。


 エピローグは、東アジアとの比較。朝鮮半島や中国では、鉄鉱石からの製鉄がメインであった。砂鉄は、あくまで原料に恵まれない地域が補助的に生産するものであった。一方で、鉄鉱石が少ない日本では、砂鉄からの製鉄が発展し、他とは没交渉に高度化した、と。


 文献メモ:
高橋一郎「出雲の近世企業たたらの歴史」『ふぇらむ』1-11、1996
野原建一『たたら製鉄業史の研究』渓水社、2008
渡辺ともみ『たたら製鉄の近代史』吉川弘文館、2006