今田洋三『江戸の本屋さん:近世文化史の側面』

 NHKブックスの時代から、読もう読もうと思いつつ手が出ず、今回貸し出し枠に余裕があったので、手を着けることに。1977年の刊行か。「在野の啓蒙主義運動」とか、「『市民的批判派』グループ」といった物言いや町衆の認識に時代を感じる。


 ちょっとまとめるのが難しいなあ。
 出版とは、書籍を商業的に生産する営みで、権力者の後援を受けて行われた、16世紀末から17世紀初頭の古活字本などは、印刷は行っているが、出版にはなっていない。17世紀前半、寛永年間までに、京都で、寺社や有識者と結びついた出版業者が成立。特権的書籍商として存続していく。


 元禄時代に入ると、井原西鶴近松門左衛門のような文学的達成から浮世草子が流行する。また、重宝集などの教訓書・ハウツウモノが流行り、貝原益軒の本で身代を築く柳枝軒のような版元も出現する。好色本はよく売れたが、「八文字屋好色本」がポルノに堕したと批判されている。とはいえ、ここいらの部分、この時点でジャンル読者が出現していたことを重視するべきなのではなかろうか。
 また、元禄時代は厳しい出版統制の下にあった時代でもあり、徳川綱吉の治世を批判する著作が強力に弾圧された。享保になると、規制は組織化され、書物屋仲間による自主規制をメインとする制度化が行われた。時事批評的な出版は一貫して弾圧された。
 農村上層まで読者層が広がりを紹介する「元禄の読者」の節がおもしろい。大和川流域の都市的集落に拠点を置く富商たちが、通俗的教養書を買い求め、『河内鏡名所記』に見られる俳諧グループからは広域ネットワークが検出できるという。日下村庄屋、森長右衛門の日記から、読書関係の記事を抜粋した物もおもしろい。4月と8月の記事が多いのは、やはり農業の関係なのかね。太陽暦とは、2ヵ月くらい差があるそうだが…


 続いては、18世紀半ば。田沼時代。江戸地店の版元が成長し、上方の出店と主導権争いを演じる。その中心が千鐘房須原屋茂兵衛を中心とする須原屋一統であった。須原屋は、藤實久美子『江戸の武家名鑑:武鑑と出版競争』でも名前を見たことあるな。この後、地図と武鑑で手堅く稼いだ書店。
 また、この時代の特色ある出版社として、須原屋市兵衛と蔦屋重三郎が紹介される。前者は、解体新書を出版した版元で、大田南畝や平賀源内といったアウトサイダー的な知識人、蘭学者、地方の知識人と交際し、林子平の『三国通覧図説』や森島中良の『紅毛雑話』といった世界に目を向けた書物を出版。また、救荒書の出版も手がけた。
 後者は、吉原の案内書や富本節正本といった長く改訂されて出版される本をベースに、黄表紙狂歌本、浮世絵の文化プロデューサーとして活躍した。山東京伝歌麿写楽というと、普通に教科書にも出てくる名前だな。
 しかし、この文化的繁栄も、松平定信寛政の改革で打ち砕かれることになる。


 19世紀に入っても、松平定信が取り立てた幕閣が残り、長い間禁圧の時代が続く。出版点数は激増しながらも、「質の停滞」と言われるが、逆に言えばそれだけ、読者層が厚くなったってことだよなあ。
 『北海異談』や『中山物語』、『金氏苛政録』など、政治的事件を取材した時事的な書物・情報発信に対する弾圧が行われ、著者が処刑される事態も散見される。また、そのような禁書の流通に関して、貸本屋が暗躍するなど、貸本屋の影響力が大きくなる。読本を出版しようと思ったら、貸本屋に評価を受けないといけない。初版は、ほとんどが貸本屋に流れるというのが、現在の学術書が図書館を顧客としているあたりと繋がるなあ。
 時事情報に対する需要は大きいが、幕府は整版による出版を禁じている。写本という形で、貸本屋を中心に流通することになった、と。
 熊本でも、地域の知識人の家なんかは、版本を写した写本がたくさんあったりするんだよな。


 そして、幕末。
 天保の大飢饉を背景に、救荒書が大量に出版されるようになる。これらは、領主が買い上げて、各村に配布する、あるいは地域改良を志す人々のネットワークで流通した。また、地域行政担当者もこのような知識が要求されるようになり、学習書の需要が高まり、時事情報に関連する禁書も、日本全域で盛んに流通するようになる。時事関係情報の出版を弾圧しまくったのに、村の日記にロシアの襲撃に動揺する幕府なんて情報がしっかりキャッチされているのが印象深い。
 どうように、近世社会の動揺の中かで、寺子屋が急拡大し、教科書の需要が激増することになる。
 このような、地域への書物の流布の激増を背景に、大藩の城下町などの書商と連合した出版が行われるようになる。
 このような江戸時代の出版業者も、明治20年代には衰退していき、活版印刷近代出版業が出現していく。
 冒頭の須原屋の系図をたどる話も印象深い。和歌山県湯浅町栖原の出で、故郷との関係を維持し続けた。歴代の墓所は和歌山に残るという。栖原からは、他にもいくつも豪商が出ているという。「北畠氏」ということは、伊勢とも関係があるのかねえ。