水本邦彦『土砂留め奉行:河川災害から地域を守る』

 江戸時代に、関西の淀川、大和川流域で行われた治水・砂防対策である土砂留め奉行制度について紹介する本。
 肥料、燃料、農耕牛馬の飼料として、農耕の維持には広大な草山が必要とされた。このため、関西の平野周辺の山には強い利用圧がかかり、草山・はげ山が広がっていた。ここから流出した土砂が、河川を天井川化させ、さらに、木津川などの川床を上昇させ、河川交通の阻害や水害を引き起こしていた。
 17世紀後半になると、問題が深刻化し、里山での伐採の制限や植林などを命じる触れが頻繁に出され、1684年の土砂留め奉行制度創設に至る。土砂留め奉行制度は、大坂町奉行所、京都町奉行所の監督下、関西に所領を持つ比較的大身の譜代大名の家臣を、土砂留め奉行として、郡ごとの管轄を巡回させ、砂防工事や草木や岩石の採取の許認可を請け負わせるものであった。様々な主体の領地を横断して、土砂留め奉行を命じられた諸藩が影響力を行使、領主権を制約するところに特色が存在する。
 担当大名としては、継続的には津藩が一番大きく、他に淀、郡山、岸和田、高槻、膳所の諸藩が担当し続けた。
 冒頭の土砂留め奉行の巡回日記や奉行を迎える村方の日記などからどのような巡回が行われるかを見ると、いろいろな史料があっておもしろい。奉行本人は遊山する余裕があって、下役が必死に書類を作っていた感じなんだろうな。そして、迎える側もスムーズに行くように移動状況の収集やもてなしの料理を準備したり。それなりに負担があった、と。


 土砂留めの堰堤の建設、はげ山への植林、草木採取禁止は一定の成果を上げるが、制度実施後100年の時点でも、植生が回復し、土砂が安定したのは2割弱。現在の京都府南部にあたる木津川流域などでは、依然として土砂流出が続いていた。このような状況に対して、民間側からの提言も行われ、幕府側も制度の改革を試みた。費用の下付、入札による工事、国全体から費用を徴収するなどの試みは単発ないし短期で挫折。町奉行所の権限強化や綱紀粛正などの試みも行われたが、長続きしなかったり、譜代大名による土砂留め奉行と効果が変わらなかったりと限界があった。
 結局の所、淀川・大和川と広域にまたがる課題なのに、工事の主体が村であり続けたのが限界なんだよな。自分たちの再生産に必要な資材を得る場所として必要な山を利用制限しなければいけない。利益相反というか。それでも、土砂流出の被害が看過できないから、受け入れられたのだろうけど。結局、費用がかかる植林工事は避けられ、手っ取り早く、自分たちの被害軽減になる堰堤工事が主体に成り、土砂留めの効果に限界があった。


 終章の近代に入ってからの変化も興味深い。「土砂留め」から「砂防」への変化。制度的には、工事のための費用が国から出るようになった。これによって、山地の植生回復にエネルギーが割かれるようになっていった。とはいえ、近代に入っても、森林荒廃は続いていたわけで、どこまで効果があって、なかったのかは気になるところ。


 本書は関西、淀川・大和川流域という幕領・小規模領地が多い地域が対象だったが、たとえば熊本県内ではどのような制度があったのかは気になる。江戸時代の風景画なんかを観察すると、熊本でも里山というか、かなりの深山まで植生への利用圧力は大きかったように見える。「領内名勝図巻」なんかも、森といった場所はあんまり見かけない。それに対して、どのような対策を取ったのか。
 吉無田水源の植林は有名だけど。


 以前読んだ、釜井俊孝『埋もれた都の防災学:都市と地盤災害の2000年』によれば、木津川の川床上昇や支流の天井川化は、すでに15世紀には進んでいたようだが、17世紀になって政治課題化したのは、なぜなのだろうか。環境史として考えると、このような研究とのジョイントが必要そう。