山田英春『ストーンヘンジ:巨石文化の歴史と謎』

 興味を惹かれて、図書館から借りだしたのだが、この規模の本に丸二週間かかってしまった。次に予約が入っているので、早く返さないと。


 内容としては、ストーンヘンジとそれを築造した人々の基本的な解説とストーンヘンジの文化史。ストーンヘンジって、有名すぎて逆に知らない事だらけだな。
 第一章と四、五章がストーンヘンジそのもの解説、研究史の紹介。ストーンヘンジは、1000年ほどのタイムスパンで、段階的に改変されながら利用が続けられた。紀元前3000-2620年ごろの第一期には、堀と土手、そして内周にオーブリーホールが掘られ、多数の火葬遺体が埋葬。第二期は紀元前2620-2480年ごろで、サーセン石のサークルと三石塔の造営、ブルーストーンのサークル設置。第三期は紀元前2480-2280年ごろで、ここいらから青銅器時代。ブルーストーンの追加と再配置。大規模造営はここいらまで。第四期(紀元前2280-2020ごろ)には再びブルーストーンの再配置。最後の第五期は紀元前2020-1520ごろ。Yホール、Zホールという穴が掘られたり、石に彫刻が彫られたり。都合、1500年ほど、「聖地」として利用し続けられた土地なんだよな。
 石材の調達地も興味深い。骨格を形作るサーセン石は、25キロほどの場所から調達しているが、重量が数十トン。小ぶりのブルーストーンはウェールズの最西端あたりから運ばれている。これだけの石材を切り出して、輸送するのに、どれだけのマンパワーがかかっているのだろうな。
 あとは、科学的な分析技術の脅威。放射性年代測定、DNA分析、同位体比分析が解き明かす年代の比定や人の動き。レイチェル・カーソンの「われらをめぐる海」が地球の起源を10億年くらいとしていたり、現在の常識は比較的最近に解き明かされたものなんだよな。プレートテクトニクスなんかもそうだけど。あとは、地域的な文脈の中のストーンヘンジ。北東に、ストーンヘンジと対になるダーリントン・ウォールズという「生者のヘンジ」が存在して、川で繋がっているというモデルが興味深い。
 あるいは、5世代にわたって、ある男性とその子孫が埋葬されたロング・バロー。ストロンチウム同位体の比率から、オーブリーホールに埋葬された人物に西ウェールズ出身者がかなり含まれているという分析結果。ストーンヘンジ築造前にあたるが紀元前3300年頃に遺跡の数が減る「新石器の暗黒時代」や、現住のブリテン人の遺伝子情報の分析からストーンヘンジを築造した人々の末裔が非常に少なく、その後に到来した「ビーカー人」が大半を占めるという人口の入れ替わり。広域の巨大石造物文化の中のストーンヘンジといったトピックも興味深い。
 モニュメントと権力というテーマも興味深い。南米の神殿が権力に先行するという発掘成果もそうだけど、大イベントを仕切る能力のある人間が、後々その影響力を自分の子孫に伝えようとするというのはあり得るお話だよなあ。


 第二章、第三章は、ストーンヘンジがどのように見られてきたかの歴史。
 古代の文献にストーンヘンジが記述されていないというのが興味深い。知らなかったわけではないと思うのだが。最古の記述は12世紀。また、ジェフリー・オブ・モンマスの「ブリタニア列王史」によってアーサー王伝説と結びつけられていた状況。近世に入って、古典古代への興味が増すと、ストーンヘンジの築造者についての興味が持たれるようになる。ローマ人建設説、あるいはブリトン人の祭司であるドルイドの聖地説。特に後者は、現在に至るまでドルイド教として団体が存続しているとか、なかなかすごい。
 というか、オカルト的偽史とナショナリズの結びつきというのが、日本でも日ユ同祖論とか、古史古伝なんかがあって、普遍的なんだなあという感慨。
 あと、現在では石器時代青銅器時代という先史時代が常識化しているけど、18世紀あたりまでだと古代の文献や聖書などに情報源が限られて、パースペクティブが極端に短くなるんだな。
 19世紀に入ると、考古学的な発掘が行われるようになっていく。とはいえ、いわば学問が形成されているのと平行して発掘調査が行われるわけだから、現在から見ると不十分なデータ取得で遺跡が破壊されてしまうとも言える、と。カニンガム、ゴーランド、ホーリーといった主要な調査者のお話から、戦後の修復。航空機によるクロップマークの発見。炭素14年代測定法のインパクトなど。ホーリーの発掘が、負の遺産とまで言われてしまうのも、発掘の難しさだなあ…


 以下、メモ:

 ダーリントン・ウォールズは、堀と土手に囲まれた居住地だったのではなく、円形にレイアウトされた居住地がわずか十数年でその役割を終え、そこを閉じるための手段として木の柱のサークルで囲み、さらに土手と堀=ヘンジがつくられたのだという。木の柱を調べると、基底部に何の補強もなく、また撤去にあたって柱は倒すことなく、真っすぐに持ち上げた形跡があった。最初から短い間だけ木の柱で囲むように設定されていたのだ。
(中略)
ヘンジはそこが役割を終え、彼らの世界観にとっては重要な場であったことを示し、そこに何かを留めておくためのものだったのかもしれない。ヘンジは内側に堀があり、外側に土手が作られている。この囲いが外から何か入ってくることを防ぐためのものであれば、ストーンヘンジの周囲のように、その順序は逆であるほうが自然だろう。これはむしろ内側にある大切なものが外に出てしまわないようにという意味で象徴的に作られたものではないか、と、複数の考古学者が考えている。p.188

 むしろ、何かを封印しているんじゃないかという感じだが…

 ネス・オブ・ブロッガーと名づけられたこの複合施設は紀元前3300年頃から建設が始まり、数度の作り替えが行われるが、紀元前2900年頃に建設された最大の建造物は、二〇×一九メートル、石壁の厚さは四メートルもあり、住居でも墓でもない、一種の宗教施設と考えられている。この大きな建物は、紀元前2400年から2200年頃、新石器時代の終焉とともに、牛を何百頭も屠って行われた儀式と饗宴とともに閉じられている。一度にそれだけの牛を屠る儀式にいったいどれだけ多くの人が集まったのだろう。p.224

 なんか、ものすごい儀式だな。連れて行けない牛をここで全部処分するぜ的な展開なのか、巨大お別れパーティだったのか、どういう雰囲気だったんだろう。