「下代菅原神社玉垣新設記念碑」

 こちらも、平成の頭頃に行われた整備工事の一環で建てられたもののようだ。






石碑正面

下代菅原神社
玉垣新設記念碑


平成四年六月吉日



石碑裏面

 下代菅原神社氏子中


 東組    加治屋組
下長栄松   西村 愿
古川末喜   中村光
古川豊喜   中村幸一
古川義継   内山正美
野口憲哉   渡辺誠
渡邊栄一   渡邊信夫
志垣武継   
前田 勉   世話人
 西組    中村正信
古庄又蔵   古庄正俊
前田重雄   渡邊栄一
志垣武義   下長信之
清原正義
村上藤雄   台石寄進
西村昭範   古川千代喜
吉村 智
中野秀一    施行
 海路組   (有)田尻石材工業
中村光
古川千代喜
中村正信
福田忠昭
中村幸博

「下代菅原神社新築記念碑」

 黒い石に白い文字だと読みやすくていいな。経年劣化で白が剥離したら、マジで読めなくなりそうだけど…
 1994-5年に、神社の施設を大整備した時の記念碑。






石碑正面

(下代菅原神社新築)
    記念碑



台座正面

   神社の由来
 下代菅原神社は、室町時代宝徳二年(西暦一、四五〇年)
に建立され、五百四十五年の歴史をもつ由緒ある神社で
ある。
 明治三十九年の合祀令により地区内の三郎天神と、
天満宮が合祀され三体の神様が祀られている、宮司
川尻の太田黒家で三代目大田黒芳江様です。
 旧拝殿は、昭和二年小島大潮害の風雨により損傷が
著しく翌三年に再建された。 その後、昭和四十二年、
六十一年と屋根工事や部分補修をして維持されてきた。
先祖よりの氏子組(加治屋組、西組、東組、海路組)
組員の分担金と各氏子の寄付金がその費用に充てられた。
長い歴史を継承された先人たちの維持管理に努力された
ことが文献、板碑等に偲ぶことができる。
 御神田は、正面鳥居前に二反四畝(七二〇坪)あって
農作物の収入が神社維持費となっていた。下代町は
二十八戸であったが、昭和四十六年市街化区域となり
年毎に住宅人口が急増し、戸数五百五十に達し、七町内の
発展と住みよい環境づくりの為、自治会、氏子の合意で
町民の憩いの場として御神田を市公園課に譲渡することに
なり平成五年に譲渡契約が成立した。譲渡金の使途も
ついて氏子一同の発案により、老朽化した神社の大改修
をすることになり、神域の表象である玉垣工事を一期、
二期と募集し平成七年三月に完成し、社殿は、平成六
年三月に着工し満一年の歳月をかけて完成した。


  建築面積(六六・二七㎡)



石碑裏面

 下代菅原神社氏子中
 東組    加治屋組
下長栄松   中村光
古川末喜   内山正美
古川豊喜   渡邊誠喜
古川義継   渡邊信夫
野口憲哉   西村英直
渡邊栄一   中村光
志垣武継   中村洋子
前田 勉    世話人
 西組    中村正信 古庄正俊
古庄又蔵   西村昭範 下村信之
志垣武義   渡邊栄一
清原正義   中村光
村上藤雄    監事
西村昭範   古川末喜
吉村 智   内山正美
中野秀一    会計
前田ミツル  福田忠昭
 海路組   自治会長
中村光雄   早咲俊信
古川千代喜   施工者
中村正信   西村工務店
福田忠昭    代表
中村幸博   西村善作
     平成七年四月吉日

上代阿蘇神社の猿田彦

 しめ縄の存在感。
 明治19年設置の紀年銘あり。旧神官とか、関わっている人が興味深い。「権中講義」というのは明治初年に設置された「教導職」というのの階級だそうだ。




 石碑左面

 明治十九丙戌年九月吉日

奉納 肥後国飽田郡上代村氏子中
        川内村大森太八
 世話 上代神社旧神官園田定雄
 謹書    権中講義朝山淡水

高橋西神社の猿田彦

 鳥居脇のけっこう目立つ位置にある。裏に碑文が書かれているのは珍しいが、生け垣になっていて近づけず。大正10年代の年紀が彫られている。「当神社大修築紀念」と、記念碑を兼ねたもののようだ。