佐藤信・五味文彦編『土地と在地の世界をさぐる』読了


古代から五味中世半ばにかけての、在地の世界を追求した論文集。以前から読もうと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。
以下、第一部「古代の在地世界へ」、第二部「在地の世界から」、第三部「在地世界の変貌」
の順番で。


第一部「古代の在地世界へ」
古代史というのは、どこでも、難しそう。少なく、断片的な情報源を四苦八苦しながら解釈し、組み合わせて、それでもぼんやりとした世界像しか描けない。
この部に収録されている論文も、そんな古代史のじれったさを感じながらら読んだ。
佐藤信「郡符木簡にみる在地支配の様相」は、出土した「郡符木簡」の検討から郡司の支配の特質を追及している。結論として、「召還・物資調達という郡司の「公務」と結びついた命令下達の際に、律令国家の文書主義が木簡を介して民衆レベルにまで広く及んでいた実情が指摘できるのである。(p.15)」と述べている。少なくとも、郡レベルには、読み書きができる人物がいたのは確かだろう。しかし、その下のレベルでは、どこまで文字が浸透していたのかは、分からないのではないか。木簡は象徴的な存在で、実際のコミュニケーションは、口頭で行われていた可能性もあるのではないか。そこのところが気になった。
三谷芳幸「古代の土地売買と在地社会」。土地の売券から、土地所有の性格を追及した論文。個人的に興味があるのは、24ページの「園地」の売買が認められていたという部分。この「園地」とは、畑ないし果樹園の類を指していると理解するが、そう考えると、律令国家は、田には強い規制を及ぼす一方で、畑地には無関心であったということか。おそらく、そのような律令の枠外の土地が、貴族や豪族たちの力の源泉のひとつになったのだろう。
以下、引用。

「園地」と「功田」だけには永代売買の道が開かれている。これは中田薫氏が指摘したとり、律令の土地体系のなかで「園地」と「功田」だけが相伝可能な土地でることにかかわっている(宅地を除く)。具体的にいえば、「園地」は田令15園地条で絶戸にならないかぎり相伝することが認められていた。(p.24-25)


第二部「在地の世界から」
ここに収録された3本の論文が、本書の肝だろう。松村恵司「古代集落と在地社会」は群馬県の黒井峯遺跡と千葉県八千代市の集落遺跡群から、集落内・郷レベルの社会構造を明らかにしている。鈴木景二「現地調査からみた在地の世界:近江国薬師寺領豊浦荘・興福寺領鯰江荘」は、副題の2荘園の様相を、現地調査による景観、伝承の採集、近世文書などの間接的な史料から、どの程度明らかにできるか示したもの。飯沼賢司「荘園村落遺跡調査と開発史:国東半島の荘園の成立と開発」は、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館によって推進された荘園村落遺跡調査で得られた情報をもとに、国東半島地域の荘園の開発の展開と支配、水利と支配の関係、集落の展開などを明らかにしている。
それぞれの論文が、考古資料、個人による調査、プロジェクトによる調査で、在地世界の歴史的展開をどの程度明らかにできるかを示していて興味深い。特に、飯沼論文の村落遺跡調査から得られた情報から描き出される地域像は緻密で、素晴らしい。しかし、この村落遺跡調査に投じられた時間と労力はあまりに大きい。言わばプロの世界の話で、日曜歴史家志望者にとっては実用性に欠ける。その点で、鈴木論文の方が、私向けの指針としては有用。また、松村論文は、考古資料から、集落間の関係・階層を明らかにする方法を示していて、興味深い。
鈴木論文で、

大正末年に滝川政次郎氏が、奈良時代の標準房戸一〇名に班給された口分田収入で年間の食料を充足しえたかという問題設定を行って以来、古代の農民家族像の理解をめぐり多くの議論がなされているが、標準房戸の班給口分田一町二段二四〇分の収穫量は最小に見積もって四〇〇束、最大で六〇〇束前後と算出されている。すなわち黒井峯遺跡に一般的な倉は、奈良時代の標準房戸の口分田収穫量を十分収納できる倉であり、また標準房戸の年間食料六二七、八束をも収納しうる倉だったことがわかる。(p.101-2)

とある。ここの問題の立て方はどうなのだろう。近代に入っても、農村住民は米よりも雑穀を食べていたことが確かだし、一般の人も米を食べるようになったのは朝鮮半島を植民地化し、そこから米が輸入されるようになってからとも聞く。口分田からの米だけで食料を考えるのはどうだろうか。


第三部「在地世界の変貌」
ここでは、鎌倉時代後期以降、荘園公領制から一円支配へと在地の構造が変化する様相を描いた論文が3本収録されている。とりあえず、この時代は今のところ関心外なので適当に。
この部では、和歌山県の紀ノ川流域、名手川で200年続いた水争いを材料に、水利秩序の原理と形成のあり方について論じた服部英雄「名手・粉河の山と水:水利秩序はなぜ形成されなかったのか」がおもしろかった。異常な事例から、一般的な水利秩序の原理があぶりだされている。
あと、五味文彦「鎌倉後期・在地社会の変質」の「殺生禁断令と流通」で、「殺生禁断と山野河海の生産活動との有機的な関係」が本文を読んでも、全然分からなかった…


本書は、各種の資料をもとに、在地の世界の様相を明らかにしようと試みている。それぞれの論文が興味深く、今回は図書館で借りて読んだが、自分で買ってもよいと思った(高いけど)。
一方で、本書の議論の対象が水田にかたよっているのは、少々、問題ではなかろうか。例えば、飯沼論文も議論の大半が水田の開発と水利の支配にあてられている。確かに、水田と米は、権力者にとっても、集落の人々にとっても、最大の関心事であっただろうし、だからこそ、水田にかんする文書が多く残ってきたのだろう。
しかし、定住の展開、そして、定住地での物資の流れ・再生産全体を対象にするとき、水田の支配と開発に視線を集中してしまうのは問題ではないだろうか。人間が生きていくには、食だけではなく、衣と住も重要である。また、食料も、炭水化物だけでなく、たんぱく質もビタミンもミネラルも必要である。そのような人間の再生産と定住地の間の関係、そして定住地間の秩序から立ち上がる権力、それらを析出する方法論を求めている。




メモ:

最近、自然地理学の研究者である高橋学氏は、十世紀ころには、海の海水面の上昇があり、これが河川の氾濫による河道の移動などを引き起こし、新たな崖面を造り出し平安後期の新段丘面の開発を生み出す契機になったという画期的な説を提唱している。すなわち、荘園を生み出した大開発が自然環境の変化と実は対応しているというのである。(p.169)

興味深い。
白川の河道変化もこれに関係するのかと思ったが、これはもっとあとの時代(南北朝ころ)のようだ。

一井谷でも田の年貢は米だが、畠の年貢は銭で納めている点が注目される。… それだけ畠作物を銭と交換する市との結びつきが強く、米も市で換金して銭によって納入するのが有利なことから代銭納を選んだと見られる。(p.280)