田中圭一『村からみた日本史』

村からみた日本史 (ちくま新書)

村からみた日本史 (ちくま新書)

 佐渡・新潟の村落の文書から、江戸時代の地域の人々の生活が多面的に浮かび上がる。一定の範囲のフィールドを長期にわたって研究しているだけに、非常におもしろい。人の移動、地域の経済、武家の改革の限界、一揆の論理など、いろいろな側面から「村」の生活が明らかになる。具体的な事例で語られて分かりやすい。
 確かに、このように地域の文書から当時の社会のあり方に迫っていくのは、かつてのマルクス主義を軸に動いていたかつての史学、幕府や藩の文書を主な情報源にしていた時代に比べて、より「民衆」に接近できているとは思う。
 ただ、なんというか、自分のフィールドの外に一歩でも出ると、理解があまりにも図式的になりすぎではないだろうか。確かに幕府の法令の現実への貫徹力はほとんどなきに等しいところがあり、民衆の側にうけいれる理由がなければ、あっという間に形骸化されたのは確かであろう。しかし、一方で、社会でのプレイヤーとしての幕府・藩を過小評価しすぎるのも、また、当時の社会を見誤る要因になるのではないだろうか。
 例えば、村落内の社会構造の変化をさして、

小百姓たちはこれまで村の基本とされてきた身分的な秩序をはらいのけていったのだ。奉行所と村重立ちの内々の約束事などは、真っ先に政治不信の対象になった。村は身分秩序の時代を終えて、経済秩序でものを考える時代をむかえたのである。p.116-7

といっているが、村落内での政治的関係の変化を「経済秩序」と理解してしまっていいのか。
 あるいは、

出稼ぎを農閑余業とみるのは、支配者である武士の、現実を知らない発想をもとに作られた形式的な記録によるによる。そうした記録のかたちにごまかされてはならない。p.184

この部分も、それそのものに関しては全く依存がないものの、制度が生んだフィクションの力を軽視しているのではないかと感じる。近世の武士が作り上げた日本に関する認識が、なんだかんだ言って現在まで影響力を保っている(国学神道のように)事を考えると、武士の「現実を知らない発想」もあながち馬鹿にできないのではないか。


あと、本書の議論に違和感を感じる理由としては、発想の基盤とする地域の差異も結構あるのだろう。私自身は、熊本を中心に、だいたい関西以西の地域についての知識をベースにしている。それが、新潟を中心に関東甲信越地方あたりを議論の基盤にしている本書との齟齬を生んでいるのかもしれない。