山口誠『ニッポンの海外旅行:若者と観光メディアの50年史』

ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史 (ちくま新書)

ニッポンの海外旅行 若者と観光メディアの50年史 (ちくま新書)

 若者の海外旅行離れの要因を、若者の海外旅行の歴史的展開から探った本。大学生を中心とする若者の旅行のあり方と、観光メディアの相互作用を、『地球の歩き方』とその母体となった「ダイヤモンド・スチューデント・ツアー(DST)」を中心に明らかにする。


 第一章は、前史として1960年代までの旅行文化と海外旅行のあり方についての整理。海外へ出る場合、留学ないし移民が目的であり、現在のような「旅行」というあり方は、エリートかアウトローの例外的な事例だったという。また、日本の旅行文化としては、江戸時代の伊勢参りなどの「講」の影響をうけて団体旅行が発達したこと。第二に、巡礼などの「大義名分」を掲げない「近代観光」が市民権を得るまでに時間がかかったと指摘する。個人的には、近代的なマス・ツーリズムの出現には、鉄道による大量輸送の発展が重要なのではないかと思う。あと、巡礼などの「大義名分」が旅行に必要であるということの、理解の仕方について。山之内克子『ハプスブルクの文化革命』asin:4062583402では、18世紀あたりより前のヨーロッパについても、必ずしも労働と余暇というのは分かれていなくて、物見遊山というのは両方が結合したものだったと指摘する。比較的最近に労働の純化・効率化によって、労働と余暇が分離したという。だとすれば、日本の旅行文化については、時間概念の違いと考えるべきなのではないだろうか。現在でも、日本では、労働時間と余暇の時間を截然とわける間隔は根付いていないように思う。それが、企業での労働の長時間化、サービス残業を生み出しているのではないだろうか。


 第二章以降は、10年単位で、若者の旅行の変化を追っている。「歩く旅」というのが、全体を貫くキーワードとなっている。小田実『何でも見てやろう』、沢木耕太郎深夜特急』、猿岩石ブームを、画期として指摘する。
 50年代から60年代にかけては、エリートの冒険記とアウトローの放浪記というスタイルが主体で、必ずしも門戸は広く開いていなかったこと。その中で、大きな影響を与えたものとして、小田実の『何でも見てやろう』とその源流となったフロンマーのガイドブックの「節約旅行」の特徴を検討している。「節約旅行」とは、後のバックパッカーとは違い、節約は方法でなく手段であり、観光客向けの高級レストランや貸し切りバスを避け、「旅先の日常生活」に触れることが目的だったこと。「旅先の人々の日常生活との接点を求めて、人々が織りなす社会的文脈に入っていくこと、つまり文脈化すること」が「歩く旅」の特徴だとする。
 70年代は、格安航空券によって学生が海外に行けるようになり、また、『地球の歩き方』やミニコミ誌『オデッセイ』といった投稿によって作られるガイド本の時代。また。『地球の歩き方』がフロンマーのガイドブックと違い、現地の人との交流を重視しない編集方針を取り、「『旅すること』を自己目的化したバックパッカーの方法」を紹介し、その萌芽になったと指摘する。
 80年代は、格安航空券ビジネスの拡大と情報誌『AB-ROAD』の結合によって、フラットに比較され、新興旅行会社が主流に踊り出てくる。『深夜特急』の文体の話と、海外を見に行くのではなく、「ここではないどこか」で異文化との接触による「リアクション」による自分探しが中心となる第二世代バックパッカーの出現。円高の進行による、パックツアー、スケルトンツアーの普及とそれによる『地球の歩き方』の変貌。
 90年代には、バックパッカー「日常」の再確認と「日本人性の再確認」を特徴とする第三世代のバックパッカーが出現した状況とその象徴として猿岩石の旅とそのブームをもってくる。また、猿岩石ブームが観光メディアを再編し、またバックパッカーの時代の終焉となったと指摘する。また、観光メディアが投稿によるコミュニケーション手段から、消費情報のカタログへと変貌していく状況。90年代後半以降の、海外旅行者の減少。
 最後は2000年代の状況とまとめ。スケルトンツアーの普及によって非常に安い値段で海外に出かけることができるようになったが、それが逆に海外旅行の選択肢を狭める結果になったこと。短時間の滞在のため、食事や買い物を詰め込んだものになり、非常に忙しい物となったこと。そのマニュアルとして『るるぶ』のような雑誌体のガイドが普及し、逆に金額がつかない情報は切り捨てられるようになったこと。これが、逆に海外旅行の魅力を失わせたのではないかと指摘する。そして、旅先の人との交流を目指した「歩く」旅の現状を述べる。
 おわりにでは、「追体験」の重要性と魅力的な旅行記が旅の文化の推進力となること。また、ガイドブックのメディアの特性。初期の『地球の歩き方』のような「投稿が投稿を呼ぶ」メディアが、コミュニティの文化圏を育み、文化の推進力となること。現在の定型的なガイドブックが、そのような文化の循環・醸成の力を失っているのではないかと指摘する。


 以下、メモ:

 「地球の歩き方」創刊メンバーの一人である安松清は、若者たちを「自由旅行」へ誘う旅行説明会で「旅の目は低いほどいい」という言葉を好んで使用したという。「飛行機より、鉄道がいい。鉄道もいいが、バスもいい。バスもいいが、そりゃ歩くのが一番いい。たとえばローマ駅からコロッセオまで行くとき、バスに乗るよりも歩いた方が、いろんなものにぶつかります」という安松は、できるだけ歩いて旅する魅力を、70年代の日本の若者たちに伝えた。その精神は、書名をはじめとする初期の「地球の歩き方」の随所に見ることができる。p.83

 これは真理だと思う。旅の目線は低いほど良い。私は、機動力との兼ね合いで、自転車を多用するが。

 そもそも旅を開始した当初、猿岩石の有吉は金髪で白い毛皮のコートを着ながら煙草をふかし続け、森脇はいかにも気が小さそうな、いわゆる「いまどきの若者」の姿をしていた。それが番組の演出であっても、苛酷な貧乏旅行は、二人をある姿へ変えて行った。
 彼らは番組スタッフを恨んだり、旅をやめる言い訳ばかり考えていた姿勢を改め、ときにバックパッカーを誘惑する麻薬や買春などには手を染めず、空手の白い道着を着ることはあってもバックパッカーに多いヒッピー風の長髪姿にはならなかった。とくにインド以西の旅では勤勉に、実直に、貧乏旅行を続けていった。旅のハイライトが収められたDVDにも見られるように、ときに彼らは現地の言葉でヒッチハイクのためのサインを作るなどして、積極的に歩みを進めた。そうおして最終目的地であるロンドンに到着した二人は、笑顔で感謝の言葉を素直に表現する、謙虚な黒髪の構成年に変身していたのである。
 この旅人の変化を「成長」と呼ぶこともできるだろう。だがここで注意したいのは、旅の果てに二人が到達した(とされる)その姿である。
 猿岩石の貧乏旅行は、屈強な反骨精神を宿した個人を、あるいは長期旅行に生きるバックパッカーを、作り出す旅ではなかった。彼らが旅の果てに手に入れたのは、そうした反社会的または非社会的な姿勢ではなく、理不尽な困難を強いられても素直に受け入れ、ときに感謝を口にするような、そして日本に帰国しても「やっていける」ような、謙虚で従順な「日本人の好青年」の姿だった。猿岩石の旅は、ある種の古典的な日本人観の上に成立する「日本人探し」のプロセスを、番組制作者と出演者と視聴者の三者が共有するテレビ番組であり、いわば「日本人作り」のリアリティ・ショーだった。p.181

 今の有吉の毒舌とは、初期の反骨精神の変形した発露なのかもな。

 だが、海外旅行そのものに魅力があり続けたならば、これらの外的要因は多少の影響を及ぼすことはあっても、長い停滞を引き起こすことはなかっただろう。とくに20代の海外旅行者が大幅に減少し続けている現状を理解するためには。上述の外的要因に加えて、ほかならぬこの時期に、海外旅行そのものが魅力を失っていった内的要因があると考えられる。
 本書の冒頭にも挙げたこの問いに対して、これまでの通時的分析を踏まえて解答を試みれば、それまで海外旅行の魅力を伝えてきたバックパッカーの貧乏旅行が96年にひとつの到達点を経て収斂してしまったこと。そしてスケルトン・ツアーの急拡大によって「海外旅行のかたち」の定番化が進み、それが固定されてしまったこと、という二つの要因が考えられる。とくに後者の影響は、無視できないほど大きいにもかかわらず、これまで十分に分析されてきたとは言い難い。p.196-7